鎌倉時代に来日した臨済(りんざい)宗の僧。中国、蜀(しょく)(四川(しせん)省)の人。幼くして出家、蒋山(しょうざん)の癡絶道冲(ちぜつどうちゅう)(1169―1250)に参じ、阿育王山(あいくおうざん)の無準師範(ぶじゅんしはん)の法を嗣(つ)いだ。杭州(こうしゅう)(浙江(せっこう)省)の霊隠山(りんにんざん)、四明(浙江省)の天童山(てんどうさん)の第一座となり、象山(ぞうざん)の霊巌寺(れいがんじ)にいたが、蒙古(もうこ)の侵入にあって1260年(文応1)来朝。博多(はかた)の聖福(しょうふく)寺、京都の東福(とうふく)寺に滞在し、ついで鎌倉の建長寺2世となって禅規を整え、1265年(文永2)宋(そう)へ帰国した。婺州(ぶしゅう)(浙江省)の双林(そうりん)寺、温州(うんしゅう)(浙江省)の江心竜翔(こうしんりゅうしょう)寺に歴住して、元の至元(しげん)13年11月24日示寂。勅諡(ちょくし)は宗覚禅師(しゅうがくぜんじ)。『兀庵寧和尚(ごったんねいわじょう)語録』1巻がある。
[中尾良信 2017年2月16日]
中国,宋代臨済宗破庵(ほあん)派の禅僧。西蜀(四川省)に生まれ,出家して癡絶道冲(ちぜつどうちゆう)に参禅,ついで無準師範(ぶしゆんしはん)の法をつぎ,無準門下の四哲の一人となった。北条時頼や同門の円爾(えんに)弁円らは,兀庵の名声を聞いてしきりに招請したが,時あたかも宋朝が元の侵入によって混乱していたので,兀庵は新天地を求め1260年(文応1)渡来し,崇福寺,東福寺に留錫ののち,鎌倉に下って建長寺に住した。時頼は兀庵に参禅し,ついに大悟徹底し,印可を受けたが,時頼没後禅を解するものがいないとして,在留6年にして帰国した。しかし,当代一流の禅僧兀庵の来朝は,日本に本格的禅宗をもたらした点で大きな足跡をのこした。
執筆者:藤岡 大拙
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
貨幣 (名目) 賃金額を消費者物価指数でデフレートしたもので,基準時に比較した賃金の購買力を計測するために用いられる。こうしたとらえ方は,名目賃金の上昇が物価の上昇によって実質的には減価させられている...