長崎市の南西,香焼島,伊王島,沖之島,高島,端島などに露出する炭田。大部分が海底に分布し,北は松島炭田に接する。夾炭層(きようたんそう)は松島炭田のものより古く,三池炭田の主要夾炭層とほぼ同時代の古第三紀の高島層群で,炭層は5~8枚存在し,炭厚は1~5m,炭質は硫黄分,灰分の少ない粘結性歴青炭である。埋蔵量は約6億t。
執筆者:大橋 脩作
長崎市の旧高島町に所在した炭鉱。高島の石炭は元禄年間(1688-1704)から採掘されていたとされるが,文化年間(1804-18)の末年から佐賀本藩の直営になった。1868年(明治1)藩主鍋島直正(閑叟)の命によってその臣松林源蔵が調査にあたり,長崎のイギリス人T.B.グラバーと佐賀藩との共同企業が設立され,洋式炭鉱の開発に着手し,69年採炭を開始した。日本における近代的炭鉱の始まりである。その後グラバーは破産し,債権者のオランダ商社(代表ボードウィン)は炭鉱買収を主張し,訴訟に発展したが,日本坑法にもとづき炭鉱側の勝訴になった。高島炭鉱は,74年1月負債の肩代りを条件に官収されたが,同年11月後藤象二郎に払い下げられ,蓬萊社(ほうらいしや)の経営となり,81年岩崎弥太郎に譲渡され,三菱財閥形成の有力な源泉になった。しかし,その背後には労働問題があった。共同企業時代に,70年3月,同年6月,72年11月,73年2月と4回の鉱夫騒擾(そうじよう)が発生していたが,78年には賃金引下げに反対する争議が暴動化する事件がおこった。鉱夫の管理は後藤時代からいわゆる納屋制度でなされてきたが,88年にその実態が雑誌《日本人》に掲載されたのを発端に,鉱夫虐待が高島炭鉱事件として社会問題化した。政府は清浦奎吾警保局長を高島に派遣,調査し,鉱夫の待遇改善を勧告した。これを受けて納屋制度の改革がすすめられ,97年の労働争議の発生を機に納屋制度は廃止された。1884年二子島,中ノ島鉱区の払下げを受け,90年端島炭鉱を買収し,高島炭鉱の支坑として採掘したが,93年中ノ島は終掘となった。1913年二子坑,38年高島新坑に着手し,1923年旧高島坑,45年高島新坑,73年二子坑,74年端島坑をそれぞれ終掘,閉山した。端島坑を含めて生産の推移をみると,1930年ころまで30万t前後で,その後増産し,41年度に戦前期最高の78万5000tを記録した。戦後,経済再建の重点産業の一つとして位置づけられたころには50万~60万tを生産し,59年ころから増産に転じ,66年度に史上最高の154万tを生産し,その後漸減し,86年11月の三菱高島炭鉱の閉山で,高島炭田での稼行炭鉱はなくなった。なお端島は,1916年以降建設された鉄筋コンクリートのアパート群などのため,島全体が軍艦のように見えることから軍艦島と呼ばれた。
執筆者:荻野 喜弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…人口1019(1995)。1695年(元禄8)鍋島家の下僕であった深堀村(長崎半島西岸)の五平太が野焼きをしているとき,黒い石が燃えるのに気づき,この燃える石(石炭)の採掘を行ったのが高島炭田の始まりといわれる。後にこの事業は佐賀藩営となり,石炭は瀬戸内各地の製塩用燃料として出荷された。…
※「高島炭田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新