グラバー
ぐらばー
John Glover
(1817―1902)
イギリスの化学技術者。鉛室法による硫酸製造におけるグラバー塔を発明した。1847年ころより、含硝硫酸からの窒素酸化物と硫黄(いおう)酸化物との分離を考え始め、1859年ダーラム州ウォルゼンドにこれをグラバー塔として実現した。グラバー塔は一般に、幅3~5メートル、高さ1~13メートルの鉄骨または鉛張りの塔で、内張りには耐酸石が施され、充填(じゅうてん)材には耐酸れんがが使用される。この発明により酸化窒素の再生と硫酸の生成が円滑に進むようになったが、操業上の改良がなされた1864年以後は、さらに硫酸の濃縮器としても利用された。グラバー塔は、ゲイ・リュサック塔とともに窒素酸化物の触媒としての役割を認識した成果であり、この両者の発明により鉛室法を使った硫酸製造の全工程の循環化、連続化が完成の域に到達した。それ以後、時代の要請であったチリ硝石の節約量は多大なものになった。
[矢木哲雄]
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グラバー
Glover, Thomas Blake
[生]1838.6.6. イギリス
[没]1911.12.16. 東京
幕末から明治初期にかけて日本で活躍したイギリスの商人。安政6(1859)年に上海から長崎(→長崎市)に渡来し,文久1(1861)年大浦にグラバー商会を設立して海産物の輸出を始めた。薩摩藩,長州藩との関係が特に深く,武器や船舶などを販売して会社を発展させた。イギリス留学生派遣の仲介も行ない,文久3(1863)年に長州藩の伊藤博文ら 5人,慶応1(1865)年には五代友厚,森有礼ら 15人の薩摩藩の密航留学生の渡欧を支えた。慶応年間(1865~68)にはイギリス公使ハリー・スミス・パークスに情報を提供して現地当局とも密接な関係を保った。グラバー商会は経営悪化のため明治3(1870)年に破産。その後は三菱の顧問として高島炭鉱の経営に携わる。日本人を妻に迎え,「倉場」という日本姓を名のった。グラバーの居住していた旧グラバー住宅は,1961年国の重要文化財に指定され,2015年世界遺産の文化遺産に登録された。
グラバー
Glover, John
[生]1817
[没]1902
イギリスの化学技術者。 1859年に,鉛室法による硫酸製造において酸化窒素の再生を可能にするグラバー塔 (グローバー塔) を発明した。
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グラバー
Thomas Blake Glover
生没年:1838-1911
イギリスの貿易商。スコットランドのフレーザーバラ生れ。父はイギリス沿岸警備隊一等航海士。アバディーンのギムナジウムに在学した後,上海を経て,1859年(安政6)9月19日長崎に来日。61年5月にグラバー商会を設立し,ジャーディン・マセソン会社の代理店もかねた。設立当初はおもに日本茶を輸出したが,64,65年ころより薩摩,佐賀,土佐,熊本等西南雄藩をはじめ幕府諸藩への艦船武器類の販売を中心に発展し,上海にも支店をもつ長崎最大の貿易商となった。65年の五代友厚等薩摩藩のイギリス留学生派遣を仲介,また薩英提携,薩長同盟の成立にも重要な役割を演じた。長崎小菅ドック建設,高島炭鉱開発,新政府造幣局の造幣機械輸入斡旋に尽力したが,68年ころより経営はしだいに悪化し,70年8月に破産した。その後三菱の顧問をつとめ,1911年12月16日東京麻布の自宅で死去。日本人女性つると結婚,富三郎,はな2人の子どもがいた。長崎市南山手町にグラバー邸が伝存する。
執筆者:杉山 伸也
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グラバー
英国の貿易商。1859年長崎に来日。1861年グラバー商会を設立し,はじめ日本茶などを輸出していたが,のち西南雄藩ほか幕府諸藩に武器弾薬,軍艦を売り巨利を収めた。また五代友厚ら薩摩(さつま)鹿児島藩のイギリス留学生を仲介,薩英提携,薩長同盟成立にも重要な役割を果たし,佐賀藩に高島炭鉱の採掘資金を貸し付けたり,長崎造船所(のち三菱造船所)の前身小菅ドックの設立にも参画した。長崎市南山手町に〈グラバー邸〉が伝存。
→関連項目長崎[市]
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グラバー
Thomas Blake Glover
1838.6.6~1911.12.16
幕末~明治期のイギリス人貿易商。スコットランド生れ。上海で事業の後,1859年(安政6)来日。61年(文久元)長崎にグラバー商会を設立。元治・慶応年間に諸藩へ艦船・武器類を販売し,長崎屈指の貿易商となり,幕末政治史の重要な局面にも多く関与した。70年(明治3)グラバー商会は破産したが,高島炭鉱の業務などにたずさわった後,81年から三菱の顧問を務めた。日本人女性と結婚し,子供はのち帰化して姓を倉場とした。1911年東京で没した。長崎市のグラバー邸は1863年に建築した旧居宅。
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グラバー Glover, Thomas Blake
1838-1911 イギリスの商人。
1838年6月6日生まれ。倉場富三郎の父。安政6年(1859)来日。長崎にグラバー商会を設立し,日本茶の加工輸出から武器,艦船の輸入へと業務を拡大。鹿児島藩留学生のイギリス派遣をたすけ,薩英提携,薩長同盟の成立に協力。明治3年破産し,以後三菱の顧問として高島炭鉱の経営などに関係した。明治44年12月16日東京で死去。73歳。スコットランド出身。
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グラバー
生年月日:1838年6月6日
イギリス商人
1911年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のグラバーの言及
【高島炭田】より
…高島の石炭は元禄年間(1688‐1704)から採掘されていたとされるが,文化年間(1804‐18)の末年から佐賀本藩の直営になった。1868年(明治1)藩主鍋島直正(閑叟)の命によってその臣松林源蔵が調査にあたり,長崎のイギリス人[T.B.グラバー]と佐賀藩との共同企業が設立され,洋式炭鉱の開発に着手し,69年採炭を開始した。日本における近代的炭鉱の始まりである。…
※「グラバー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」