高崎城跡(読み)たかさきじようあと

日本歴史地名大系 「高崎城跡」の解説

高崎城跡
たかさきじようあと

[現在地名]高崎市高松町

慶長三年(一五九八)井伊直政が箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)から移って築いた平城。南東に流れるからす川と碓氷うすい川の合流点左岸崖上に位置し、北と東に中山道を望む。戦国時代までの和田わだ城の後身

〔和田城〕

中世末期の状況を描いたと考えられる和田絵図(「更正高崎旧事記」所収)によると、烏川左岸崖上に和田城がある。正長元年(一四二八)和田義信が赤坂あかさか庄とよばれた地に築城し、以降当地は和田宿と称されたという。城の東下を鎌倉街道が通る交通の要衝であった。義信は、建保元年(一二一三)の和田合戦で滅亡した和田氏の一族と伝える(「高崎志」など)。和田義信は上野守護上杉憲実に従って永享の乱に参加している(「永享記」など)。その後も和田氏は上杉氏と行動をともにしており、文明九年(一四七七)一二月二三日には古河公方足利成氏の軍が和田へ押寄せた(「太田道灌状」島原市教育委員会蔵)。下って弘治三年(一五五七)四月の瓶尻合戦では、箕輪城の長野氏を棟梁として武田信玄軍勢と戦っている(関八州古戦録)。永禄四年(一五六一)、和田業繁は上杉謙信(長尾景虎)に従って小田原遠征に参加したといわれるが、遠征失敗後謙信から離反して武田信玄に通じた。このため謙信は再三和田城を攻めたが、ついに落城しなかったという(「長楽寺永禄日記」など)。天正一〇年(一五八二)の武田勝頼滅亡後和田信業は北条氏に従って、同一八年小田原で籠城、和田城は前田利家率いる北国勢の手に落ちた。

〔江戸時代〕

中山道の整備にともない、慶長三年井伊直政は居所を和田に移した。この頃の和田城は廃城同様な状態にあり、高崎城は和田城を改修したというより新しく構築した城といえる。しかし直政の在城はわずか三年弱であり、元和五年(一六一九)に封ぜられた安藤氏三代七七年の間に完成したといわれる。


高崎城跡
たかさきじようあと

[現在地名]大分市高崎

大分市と別府市の境にある標高六二八・四メートルの高崎山頂に立地する山城。高崎山は別名四極しはつ山とよばれるように四方を見渡すことができる。「大友家文書録」によると、建久七年(一一九六)一月一一日、豊前・豊後両国守護職兼鎮西奉行に任命された大友能直の先発として、実弟古庄重能が六月一一日浜脇はまわき(現別府市)に上陸したとき、阿南惟家が高崎山に陣を構えて抵抗したというが、裏付ける史料はない。正平四年(一三四九)八月日の深江種重軍忠状写(筑前深江文書)にみえるのが早く、鞍懸くらかけ(現豊後高田市)・高崎などを退治したとあるが、この事件の傍証史料はなく検討が必要である。守護大友氏時は正平一四年(延文四年)から当城に入って南朝方と戦っており(同年五月日「木屋行実軍忠状」筑後木屋文書ほか)、同年氏時に属した志賀氏房は当城から引揚げる南朝軍を九重くじゆう山まで追撃した(延文四年一〇月二〇日「志賀氏房軍忠状」志賀文書)


高崎城跡
たかさきじようあと

[現在地名]竹原市高崎町 高崎

古くより瀬戸内海航路の要地とされた高崎浦にあった城で、沼田小早川氏の直轄地として、その代官浦氏行・真田民部丞・天野弾正などが居城した。東方に突き出した半島状の部分を掘切って築かれ、西に曹洞宗薬師やくし寺があり、境内には室町期の宝篋印塔五輪塔が多数残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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