高崎村(読み)たかさきむら

日本歴史地名大系 「高崎村」の解説

高崎村
たかさきむら

[現在地名]佐倉市高崎

寒風さむかぜ村の北、高崎川右岸に位置。千葉佐倉道が通る。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)にみえる高崎は当地と考えられ、村越九郎左衛門入道が田一町を領し、原将監領もあった。天正一八年(一五九〇)に北条氏勝(岩富藩)領となり、翌一九年二月一四日の下総国印東庄高崎村御縄入水帳(佐倉市史)が残る。なお近世初頭は八木やぎ村も含んだとされる(印旛郡誌)。慶長一七年(一六一二)には下総国高崎村の一千石(八木村分を含むか)青山幸成(寛永一〇年から遠江掛川藩主となる)に加増地として与えられている(寛永諸家系図伝)

高崎村
たかさきむら

[現在地名]徳島市不動東町ふどうひがしまち一―五丁目・不動東町・不動北町ふどうきたまち一―二丁目

東流する吉野川(別宮口)と南を北東流する鮎喰あくい川の合流点南西方にある。西は北新居きたにい村・南新居村鮎喰川対岸は矢三やそ村・今切いまぎれ村。「三好家成立記」によれば、天正五年(一五七七)九月八日、一宮いちのみや城の一宮成助(成祐)らの軍勢は三好方の矢野駿河守らを攻撃するため、八万はちまん富田とみだ助任すけとうを経て「高崎表」へ打出たが、合戦には勝利するが家臣が討死するという占いが出たため軍勢を引いたという。

慶長二年(一五九七)の分限帳に高崎とみえ、一七九石が長江弥三郎、一〇四石余が堀尾平右衛門、五四石余が尾関源左衛門、一二石が尾関左太郎、七石余が尾関藤七郎、五〇石が井村清左衛門、一二五石が長田久右衛門、二〇六石余が伏屋太郎作、二〇〇石が伏屋忠左衛門、六九石余が高間太郎助、七〇石が河崎作右衛門、三〇石が安藤甚助、二〇石が津田九郎兵衛、五〇石が浅野才介、四〇石が田中九右衛門、四〇石が西野右馬允、四〇石が井関源内、一五石が又次郎、三五石が梯源兵衛、三〇石が梯仁右衛門、九六石余が岩田五左衛門の各知行分。

高崎村
たかさきむら

[現在地名]竹原市高崎町

浦福田うらふくだ村の西に位置し、西は賀茂郡下市しもいち村、南は瀬戸内海に面する。東南海上の阿波あば島も村域に含まれる。豊田郡に属した。

仁治四年(一二四三)二月日付の安芸沼田新庄方正検注目録写(小早川家文書)によれば、同二年に「高崎浦四丁二反三百卅歩(中略)所当米六石三斗二升五合、公物三石三斗五升四合、地頭分二石九斗七升一合」が検注され、沼田ぬた新庄に含まれていた。その後新庄小早川の椋梨氏の係累「高崎殿」が領有したが、応仁の乱以降は惣領家にあたる沼田小早川氏の領有となり、小早川宣平の七男氏実を祖とする浦家の子孫氏行や、天野弾正・真田民部丞などがこの地の代官とされた(小早川家文書)

高崎村
たかさきむら

[現在地名]多賀城市高崎・高崎一―三丁目など

浮島うきしま村の南に位置し、塩竈から延びる丘陵と東に広がる沖積地に立地。永仁二年(一二九四)一〇月一三日の法眼良弁譲状(留守文書)に「五大院修正田同在高崎」とみえ、この時良弁(留守家元の子で塩竈神宮寺別当)から留守家政に譲られた。塩竈神宮寺も譲られているが、正安二年(一三〇〇)五月二一日の留守家政譲状(同文書)に「五大院并高崎塩竈神宮寺」とあるので、塩竈神社の神宮寺が当地にあったことがわかるが、跡地は不明。五大ごだい院および塩竈神宮寺は家政から嫡孫家明に、さらに嫡子家任へと他の留守氏所領とともに譲られていった(元亨四年六月一九日「留守家明譲状」同文書ほか)

高崎村
たかさきむら

[現在地名]五城目町高崎

馬場目ばばめ川の沢口、河成平野中央にあり、馬場目街道が北西から南東に通る。北はひろを隔てて富津内ふつない川沢口の山内さんない村と相対している。広ヶ野は縄文中期・晩期の遺物包含地。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「五百七拾四石三斗三升 高崎村」とあり、文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に九八九石二斗三升四合とある。

高崎村
たかさきむら

[現在地名]挟間町高崎たかざき、大分市高崎

石城せきじよう川と賀来かく川の合流点の北側、高崎山を含んで別府湾に至る地域を占める。同山南麓を府内と別府を結ぶ豊前道が通り、銭瓶ぜにがめ峠越の道は難所として知られた(大分市の→高崎山。永享五年(一四三三)九月二〇日の大友持直知行預ケ状(大友家文書録)に「高崎」とみえ、高崎又五郎跡の同所三七貫分が斎藤著利に預けられている。文安元年(一四四四)四月五日、阿南あなん庄内高崎村のうち「由原下馬林道越」にある畑分二段が金亀和尚御供田として由原ゆすはら(現大分市)に寄進されている(嘉吉四年四月五日「高崎棟治寄進状案」柞原八幡宮文書)

高崎村
たかさきむら

[現在地名]大分市高崎・八幡やはた 机帳原きちようばる、大分郡挟間はさま高崎たかざき

賀来かく川の上流、石城せきじよう川と由布ゆふ川の合流点北方に位置し、東は南から宮苑みやぞの村・しん村・由原ゆすはら村・田浦たのうら村、北は高崎山(六二八・四メートル)の北斜面が別府湾に落込む。南東部の机帳原は、府内藩の藩政改革を行った広瀬久兵衛が安政二年(一八五五)から当村の庄屋佐藤弥治右衛門の協力を得て開拓した。

高崎村
たかさきむら

[現在地名]八千代町高崎

鬼怒きぬ川中流西岸、古来よりの乱流によって形成された沖積地に立地。肥沃な水田地帯を形成。西は小屋こや村。小字が四三あり、寺社の存在を示唆する宮西みやにし地蔵じぞう神明前しんめいまえなどの小字は一五にのぼり、寺社が多かったことが想像される。

「寛文朱印留」によれば土井利益(のち古河藩主)領であったが、「各村旧高簿」によれば幕末には下総佐倉藩領で村高九八六・二九四石。ほかに福寿ふくじゆ院領五石、わし神社(旧村社)領五石などがあった。

集落西南部の狭い道路沿いに寛政一二年(一八〇〇)建立の「庚申さま」があり、それと向い合って「奉納西国、坂東・秩父順礼供養塔、享和元年酉歳三月吉祥日」と刻まれた石碑があり、建立者は関長左衛門・上野半兵衛・幾久山孫兵衛・江連藤兵衛・中茎市郎兵衛・青木儀三郎。

高崎村
たかさきむら

[現在地名]茎崎村高崎・城山しろやま

稲荷いなり川左岸の台地上にあり、村の南を水戸街道が通る。北は菅間すがま村、西は房内ぼうち村。戦国期に岡見氏の支配下に入り、同氏は稲荷川に突出た要害ようがいの地に高崎城を築いたが、天正一八年(一五九〇)多賀谷氏の攻撃で落城といわれる。寛永六年(一六二九)牛久藩領となり(寛政重修諸家譜)、「寛文朱印留」に「高崎村野銭高ニ入」とある。元禄郷帳の村高は二二九石余で、幕末は牛久藩領二六六石余(各村旧高簿)

高崎村
たかさきむら

[現在地名]弘前市高崎・城東北じようとうきた一―四丁目

弘前城下の東にあり、北東は境関さかいぜき村、西北は堅田かただ村、東は福田ふくだ村、南は高田たかだ村、西は和徳わつとく村に続く。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀ひらか郡の新田に村名があり、村高二九九・五三石。寛文四年(一六六四)の高辻帳では村高五二〇石。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、村高は五三五・〇九七石、うち田方四九二・一五九石、畑方四二・九三八石。田位は上田から下田まで、斗代は上田が一・三石と高い。

高崎村
たかさきむら

[現在地名]真野町西三川にしみかわ

北は西三川村、南は椿尾つばきお村、東は笹川十八枚ささがわじゆうはちまい村。西三川海岸の潮掛しおかけ鼻付近の海岸および高崎川の沢、その左岸段丘上一帯の村。現国道三五〇号が海岸を通過する。国道沿いに現在三〇戸近くの民家があるが、明治初年までは五戸ほどで、他は段丘上にあった。元禄七年(一六九四)の検地帳(高崎区有)では田六町二反余・畑九町六反余。屋敷持は二四筆で地字高や・浜・松尾・中尾・才ノ神などにある。

高崎村
たかさきむら

[現在地名]玉里村高崎

玉里台地の南端に位置し、霞ヶ浦に面する。北東は上玉里かみたまり村。寛文一一年(一六七一)上玉里村から分村と伝え(新編常陸国誌)、以後幕末まで水戸藩領(各村旧高簿)。「新編常陸国誌」によれば、天保一三年(一八四二)には田畠は六三町三反余(分米五一三石余)あり、ほかに新田九町一反余(分米六三石余)があった。「水府志料」の戸数はおよそ九二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報