日本歴史地名大系 「高嶺村」の解説 高嶺村たかみねむら 滋賀県:甲賀郡甲賀町高嶺村[現在地名]甲賀町高嶺和田(わた)村の南、和田川の上流で、丘陵内陸部に位置。東谷(ひがしだに)・小林(こばやし)・中出(なかで)・山根(やまね)・前(まえ)・越前(こしまえ)などの垣内に分れる。和田の住人が開発・移住して一集落をなしたと伝える。中世は高嶺氏が領したといい(甲賀郡志)、高嶺北城・高嶺東谷城・伊賀見(いがみ)城などの中世館跡があり、城街道(しろかいと)・城(しろ)ノ腰(こし)などの地名も残る。江戸時代の領主は正保郷帳では幕府領と旗本渡辺領に二分され、幕府領の一部は元禄一〇年(一六九七)旗本大久保領、宝暦八年(一七五八)丹後宮津藩領となる。幕府領の残りは元禄郷帳では女三宮の霊屋光雲寺領。渡辺領は元禄郷帳では鉄砲百人組頭近藤氏与力領、天明村高帳では大津代官石原氏預領。 高嶺村たかみねむら 富山県:婦負郡山田村高嶺村[現在地名]山田村若狭(わかさ)谷(たに)村の南、山田(やまだ)川右岸、御鷹(おたか)山北斜面に立地する。地内に神保長職が築いたという若狭城跡があり、上杉謙信の進撃に対して長職方の部将が防備にあたった出城であったとされる。高嶺という村名はその城主高峰若狭守にちなんでつけられたが、近隣の室牧(むろまき)谷(現八尾町)にも同名の村があるため、若狭とよぶようになったと伝える。「三州地理志稿」の高嶺の項に「一名若狭」とある。正保郷帳に村名がみえるものの、谷村の項に「高嶺村共」とあるのみで、単独の村高は不明。 高嶺村たかんみむら 沖縄県:沖縄島南部豊見城市高嶺村[現在地名]豊見城市高嶺(たかみね)豊見城(とうみぐすく)間切の南部に位置し、北は平良(てーら)村、東から南にかけて兼城(かにぐすく)間切武富(だきどうん)村(現糸満市)。平良村と併称してテーラ・タカンミという。絵図郷村帳や「琉球国由来記」には豊見城間切高嶺村とみえるが、琉球国高究帳には記載がない。間切集成図では首里から真玉(まだん)橋を渡った道筋が当村と平良村の間を通り、兼城間切波平(はんじや)村(現糸満市)の西に出て同間切番所(現同上)に至る。当村を領する地頭職には康熙一五年(一六七六)祖氏高嶺親雲上良延(「中山世譜」附巻)、同五九年魏氏四世魏士哲高嶺親方、乾隆二年(一七三七)同六世魏宗綱高嶺親雲上、同六年同五世魏邦英高嶺親雲上、同四一年同六世魏嘉猷高嶺秀才(魏姓慶佐次家家譜)、咸豊五年(一八五五)向氏高嶺親方朝行がいる(「中山世譜」附巻)。 高嶺村たかみねむら 富山県:婦負郡八尾町高嶺村[現在地名]八尾町高峰(たかみね)新名(しんみよう)村の北、野積(のづみ)川左岸の山腹にある。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは高熊(たかくま)村と合せて記される。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では青根(あおね)村の一二町ほど北にある枝村新田としてみえ、高八五石。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by