高知城跡(読み)こうちじょうあと

国指定史跡ガイド 「高知城跡」の解説

こうちじょうあと【高知城跡】


高知県高知市丸ノ内にある城跡別名、鷹(たか)城。高知市の中央部に位置する標高約45mの大高坂(おおたかさか、おおだかさ)山に築かれ、南を流れる鏡川と北を流れる江の口川を外堀としている。最高所を本丸とし、その北に通路を兼ねた空堀を隔てて二の丸を配し、その東に一段低く三の丸を置く。城壁はすべて石垣で固められ、大手口は南東麓に、搦手(からめて)口は西麓にあり、堀は山裾をめぐって北の江の口川の川辺に達していた。土豪大高坂氏によって築城された大高坂城があったが、南北朝時代の1340年(暦応3・興国1)、大高坂松王丸が北朝方に敗れ、城は廃城となったと考えられている。1588年(天正16)、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が再び城を築き、整備が進められていたとみられるが、関ヶ原の戦いで元親の子盛親(もりちか)は西軍に与(くみ)して改易となり、1601年(慶長6)、山内一豊が掛川城から土佐に転封となり、浦戸城に入った。浦戸城下町を作るには狭いため、大高坂山の地を選んで本丸の造営に着手し、1603年(慶長8)には本丸と二の丸が完成し、一豊は入城した。このとき、河中山(こうちやま)城と名づけたが、度重なる水害に河中の名を忌み嫌った2代忠義は、高智山城と改名し、それが省略されて高知城と呼ばれるようになった。その後、三の丸が竣工し、城の縄張りが完成したが、1727年(享保12)の大火にあって城のほとんどは焼失する。現在の建物はこのあと再建されたもので、1749年(寛延2)に天守などが完成した。天守は小振りになったが、外観は創建時の姿が踏襲され、千鳥破風(はふ)と唐破風などをつけた安土桃山時代様式を保ち、外観4重(内部3層6階)で高さは18.5m。1873年(明治6)の廃城令による破却太平洋戦争空襲を逃れ、天守・本丸御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、それらは重要文化財に指定され、1959年(昭和34)に城跡が国指定の史跡になった。城全域が高知公園として開放され、周辺は行政の中心地となっている。JR土讃線高知駅から徒歩約25分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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