高石(読み)タカイシ

デジタル大辞泉 「高石」の意味・読み・例文・類語

たかいし【高石】

大阪府南部の市。大阪湾に面し、臨海住宅地として発達。海岸はかつて高師の浜景勝地として知られた。人口6.0万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「高石」の意味・読み・例文・類語

たかいし【高石】

大阪府南西部の地名。大阪湾に面し、臨海住宅地として発達。海岸はかつて高師の浜の景勝地として知られた。昭和四一年(一九六六)市制。

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日本歴史地名大系 「高石」の解説

高石
たかし

現高石市西部の海浜に沿った地域の称で、旧高石南たかいしみなみ・同北・今在家いまざいけなどの村に相当する。高脚(日本書紀・日本霊異記)、高師(万葉集)、高磯(内閣文庫本「大鳥神社流記帳」)とも書く。高脚海は古代天皇家の禁漁区で、高師の浜は歌枕としてしばしば和歌に詠まれた景勝の地である。高石の地名の初見は「日本書紀」垂仁天皇三五年九月条で、五十瓊敷命を河内国に遣わして高石池を作らせたとあり、当時和泉国は河内国の一部であった。「古事記」同天皇段には「日下くさか高津たかつ池」を作ったとあるが、高津は高師の誤りで、日下は大鳥郡くさべ郷のこととみられる。高石池の所在は明らかでなく、「和泉志」は高石村の乙池のこととする。「泉州志」はまい(現和泉市)集落の北にあった鳥石とろす池にあて、この池は「万葉集」に詠まれた取石とろし池でもあるとし、高石池・取石池を同池とみる。いずれにせよこの地域は灌漑用水池築造によって早くから開発が進められたと考えられ、その開発者は式内高石神社を氏神とし、天平神護二年(七六六)一二月四日、高志連となった高志登若子麻呂(続日本紀)一族とみられる。高志氏は高石氏のこととされ、高志氏の出身には僧行基の父高志才智があり(行基墓誌)、行基建立四十九院のなかに当地の葦田あしだ清浄土せいじようど院と高石村清浄土尼院があった(行基年譜)。両院の跡地は今のところ不明。

平安末より鎌倉期の高石は、国衙領であるとともに和泉一宮大鳥神社(現堺市)の神領(祓戸・供菜浦)であった。内閣文庫本「大鳥神社流記帳」には大鳥五社のうち正一位勲八等大鳥大明神の神領として「浜弐浦四季御贄料 葦田浦 高磯浦」「御祓戸 在葦田浦」がみえる。浜二浦は石津いしづ川河口を北限とし、南は王子おうじ川河口に至る大鳥郷浦であり、高師の浜はその中心である。四至のうち南限に「日下堺」とあるように、一定の領域をなすものである。葦田浦は五社のうち「島木里」に鎮座する正三位はま(現羽衣浜神社)を中心に、「葦田」の小字が密集する芦田あしだ川下流域を南限とする海浜であり、高磯浦は芦田川の河口を北限に、「高石正里」に鎮座する高石神社を中心とした海浜であったと思われる。

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改訂新版 世界大百科事典 「高石」の意味・わかりやすい解説

高石[市] (たかいし)

大阪府南部,大阪湾に面する市。1966年市制。人口5万9572(2010)。堺市の南に隣接する。海岸は古代から高師浜(たかしのはま)として歌枕にもあげられた景勝の地であった。百済系の渡来人が定着し,国道26号線沿いには渡来人の高志(こし)氏の祖といわれる王仁(わに)をまつった高石神社がある。1897年に現在の南海本線の堺~泉佐野間が開通し,1901年には高石駅が開設され,大阪市まで直結した。堺市浜寺から高師浜にかけての海岸部には第1次大戦後高級住宅が建設され始め,第2次大戦後は南海本線やJR阪和線沿線に宅地化が進んで,近郊住宅地の形成をみた。南隣の泉大津市とともに毛布生産中心の繊維産地であったが,1960年代に入って海岸一帯に臨海工業地が造成され,堺・泉北臨海工業地帯の一部として石油化学コンビナートが成立した。海岸部には堺にまたがる浜寺公園があり,レクリエーション地区になっている。
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