日本大百科全書(ニッポニカ) 「高野佐三郎」の意味・わかりやすい解説
高野佐三郎
たかのささぶろう
(1862―1950)
近代剣道確立期の一大指導者。武蔵(むさし)国秩父(ちちぶ)郡大宮郷(埼玉県秩父市)の旧家に生まれる。幼時から祖父苗正(みつまさ)について小野派一刀流を学び、6歳のとき領内巡視中の藩主(忍(おし)藩)松平下総守(しもうさのかみ)の御前で、祖父と組太刀(くみだち)56本を演じ、奇童の二字と銀子一封を賜ったという。18歳のとき、上京して山岡鉄舟の門に入った。1886年(明治19)鉄舟の推薦で警視庁の剣術世話掛に採用されたが、師の死にあって在職2年余で辞職帰郷。やがて埼玉県警の武術教授掛を命ぜられると、祖父以来の道場明信館の第一支館を浦和に建て、これを手始めとして星野仙蔵ら県内・近県の素封家の理解援助を得て、相次いで支館を設定し、公務のかたわら剣道の普及に精力的な活動を続けた。95年、京都に大日本武徳会が創立されると、いち早く明信館の組織をあげてこれに加入し、翌96年第2回武徳祭に出席し、大演武会の審判委員に選ばれ、精錬証を授与された。ついで大日本体育会が創設されるや、98年には同会埼玉県常務委員を委嘱されている。翌99年には、平沼専蔵の援助を受けて東京の九段下に第四二支館東京明信館を建て、大日本武道研究所の看板をあげた。
おりから中等学校の体育科に武道を加える主旨の建議案が衆議院を通過し、それに対応する教員の養成が急務となり、1908年(明治41)東京高等師範学校の撃剣科講師に招かれた。12年、大日本武徳会より大日本帝国剣道形調査委員を嘱託され、その主査(5名)の1人として同剣道形の制定にあたり、翌13年(大正2)同会より剣道範士の称号を授与された。ついで15年名著『剣道』を刊行し、16年には柔道の永岡秀一とともに教授に昇任し、以後36年(昭和11)75歳をもって依願退官するまで、前後三十余年にわたって剣道界の大指導者の地位にあった。この間、昭和天覧試合など大試合の審判員として活躍、また、私塾修道学院を経営して多くの名剣士を生んだ。89歳で老衰のため死去。
[渡邉一郎]