武道という言葉は,現代においては柔道,剣道,弓道,薙刀(なぎなた),空手,相撲など,日本の伝統的な武道諸芸の総合名称として理解できよう。これは,日本武道館,日本武道学会,武道学科などの名称に〈武道〉の語が用いられているところからも了解できる。その意味では,日本の武術,武芸,武技などといわれてきた伝統的な運動文化を,近代になって〈武道〉と呼ぶようになったともいえる。しかし〈武道〉には,歴史的に〈武士道〉という倫理思想的な意味もあり,その意味では,茶道,華道,書道などと同様,日本の伝統的な文化として概念づけることができる。
武道の語は,武と道が熟して一語となったもので,〈武の道〉あるいは〈武という道〉であり,行為や動作を含む技能を意味する語と道が組み合わされている。武という字は,会意文字として,一般的には〈戈(ほこ)+止〉つまり〈戈を止める〉ということで,平和を志向するものであるという儒教的解釈がなされる。しかし一方,武は〈戈+足〉つまり〈武器を持ってつき進む〉というのが本来の意味であるとする説もある。いずれにしても〈武道〉という言葉には,武士の守るべき道,武士道と同義の意味と,武術に関する道,軍事上のことがら,武士としてつねづねなすべきこと,つまり弓馬剣槍など武芸に関する術の鍛練,弓矢の道などの意味がある。また武道という語は時代によりその用例に違いがあり,近世以前,近世,近代と3期に大別して概観すると以下のようになる。
近世以前は,概念としては非常に広く,政治,軍事一般に関して用いられていた。もともと武道の語は中国の古典から出ているもので,〈忠孝両全,文武両道〉といわれるように,文武兼備の必要を唱えたものである。そして武を〈止戈(しか)〉とする儒教的解釈などにより,《左氏伝》の〈武の七徳〉など,武徳の思想によって解釈され,武による国の統治という考え方は日本の武道にも大きな影響を及ぼした。たとえば《太平記》にみられる〈征夷将軍の位に備はり天下の武道を守るべし〉などは,武士の武力による統治を意味している。このようにこの時期は,武道ははっきりした概念をもたず,武徳,武威,武士道,武力,武備などを包括した広義な概念であった。
近世という武士階級支配による平和な時代になり,武道はやや明確な概念をもつようになる。大道寺友山の《武道初心集》や井原西鶴の《武道伝来記》などにみられるように,〈武道〉は明らかに〈武士道〉と同義である。弓,馬,剣,槍などの技や修行に関する場合は,武術,武芸,武技,兵法などであり,〈武道〉とはいわない。近世において〈武道〉は倫理思想であり,剣や槍の技や術としての武術,武芸と明らかに区別して用いられている。
近代になって〈武道〉という語が使われ出すのは明治20年代になってからである。たとえば1895年隈元実道の著した《武道教範》などは,武道を剣術と武士道思想を包括した意味で述べている。明治時代はしかし,一般的には撃剣,柔術といいならわしていたようである。明治30年代,国家主義的思想が強まるとともに武士道の復活が叫ばれ,国民道徳の涵養,忠誠,武勇をたっとぶ軍人の教育として,武士道,武術,皇国史観をミックスした国技としての武道が強調され出した。そして大日本武徳会の創立(1895)と発展など,しだいに武術は武道として啓蒙されてくる。撃剣,柔術が剣道,柔道として学校体育に登場するようになり,薙刀も含めた学校武道が成立し,1945年の第2次世界大戦敗戦まで,武道はこのような広い概念をもって普及・奨励された。
現代武道は,体育・スポーツとして戦後復活したが,1964年のオリンピック東京大会のころ以降,しだいに武道として強調されるようになり,また広く国民に愛好者も増え,国際的にも普及している。武道の概念は何か,武道はスポーツか否かなどの論議も盛んに行われているが,いまだ明確な概念規定はなされていない。いずれにしても,武道は独特の技術観や修行観,教育的意義をもった伝統的文化として発展してきている。
元来武術は,相手を倒し自己の身を守るための戦いの技術であり,武器の種類や技の特徴によって,さまざまの種類の武術に分かれていった。とくに鎌倉時代以降,武士の台頭と戦争体験は,武術を大いに発展させた。弓馬剣槍などがその中心的なもので,戦国時代から近世にかけて,技や教習の体系が徐々に考案され,〈流派〉という教習の形態を生んだ。流派が成立する条件としては,社会的・文化的背景とともに,天才的な能力を持った達人の出現,技法が非常に高度なもので習得するのに専門的な指導と長時間の学習の継続が必要であること,技とその教習の体系および伝授の形式をもっていること,などが考えられる。そして流派の成立によって,相手を倒す方法という実用性のみでなく,技に習熟すること自体に意味や価値を見いだすようになる。実用性から考えるならば,当然総合的な武術が有利であるが,剣は剣術,槍は槍術というように単一化し,分化して教習されるようになる。このように,武術が実用性を離れ,総合武術が分化してくるということは,いいかえれば武術が,文化としての価値と形態をもつようになったともいえる。そして武術が理論的にも研究され,伝書として記されて伝承されるようになるが,このような時期がだいたい近世初期にあたる。
江戸時代という平和な時代に武術はますます理論化され,技の精妙さを競ってくふう,修練された。そして武士の必須のたしなみないし教養として重視されるようになった。〈武芸四門〉〈武芸十四事〉〈武芸十八般〉などといわれるのは,そのことを示すものである。また武術の理論化は,武術と禅,儒教,老荘思想などとの関連を深め,技法のみならず,その心法が重んじられるようになった。武術が宗教的,哲学的,あるいは教育的に理論化されたともいえる。江戸時代中期,太平の世相のなかで武術は華法化され,柔弱,形式的との批判を受けるが,幕末における外国船の日本への接近や思想的対立など,社会情勢が緊迫してくると,武術は再び重視されるようになる。各藩は競って藩校を設け,文武教育を強調し,またしだいに武士階級のみならず,一般庶民にも広がっていった。明治となり,文明開化の風潮のなかで武術は一時衰退するが,日清・日露戦争などによってナショナリズムが強まるに従いしだいに隆盛し,学校教育・体育を中心に近代武道へと発展していくのである。
執筆者:中林 信二
1872年(明治5)の〈学制〉発布以来,日本固有の武術は学校教育には適さないものとされ,排除されてきた。しかし,日清・日露の両戦争,第1次世界大戦と相次ぐ戦争により,国家主義が強まるのに伴い,武術が学校教育に導入され,武道として確立されていった。すなわち,1898年に撃剣と柔術が中学校課外に限り許され,1911年には正課授業で実施することが認められた。さらに13年の学校体操教授要目において,中学校と男子師範学校の体操科教材として位置づけられ,26年には剣道および柔道と改められた。そして,満州事変の起こった31年にはそれらが必修化され,質実剛健な国民精神の涵養と心身の鍛練がその主眼とされた。さらにまた,39年には小学校正課教材とされるに至り,41年には国民学校体錬科武道としていっそう重視された。なお,1936年には,女学校や女子師範学校の教材に弓道や薙刀が加えられている。
第2次大戦後,武道は国家主義的・軍国主義的性格をもつ教科内容として,その授業は中止された。しかし,50年中学校選択教材として柔道の復活が認められ,57年には剣道が復活し,58年の中学校学習指導要領では,相撲,柔道,剣道を格技として位置づけ,いずれか一つを選択履修することが定められ,現在に至っている。64年のオリンピック東京大会において柔道が競技種目に加えられ,また世界選手権大会が毎年開催されるようになったこともあって,とくに柔道はインターナショナルなスポーツの一つとしての発展をとげつつあるのが,今日の趨勢である。97年,柔道衣のカラー化が全日本柔道連盟の反対を押し切って国際柔道連盟(IJF)において決定されたことは,象徴的な出来事であった。学校体育における格技の今後のあり方も,そうした趨勢と無関係ではありえない。すでに,高校の学習指導要領体育編では,格技は〈スポーツⅢ〉と表記されている。
執筆者:中森 孜郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…東京都千代田区北の丸公園にある総合武道施設および組織。財団法人。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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