出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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鬼室集斯 (きしつしゅうし)
7世紀半ばに渡来した百済貴族。生没年不詳。百済の武王の甥で660年の百済王都陥落後に国家再興に奮闘した鬼室福信の子か近親とみられる。663年(天智2)8月の白村江の戦に日本軍が敗れると,翌月余自信らと日本に亡命,665年福信の功によってとくに小錦下の冠位を授けられ(本位は達率),669年に百済男女700余人とともに近江国蒲生郡に移し置かれ,671年正月に学職頭に任命された。滋賀県蒲生郡日野町小野の西宮境内に鬼室集斯の墓なるものがあるが確かではない。
執筆者:関 晃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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鬼室集斯【きしつしゅうし】
《日本書紀》に見える百済(くだら)貴族。660年の百済滅亡後,倭国(わこく)の援助を得て復興運動の中心となった鬼室福信の近親とされる。663年白村江(はくそんこう)の戦後日本に亡命。665年とくに小錦下(しょうきんげ)の冠位(本位は達率(たっそつ))を授けられ,669年700余人とともに近江国蒲生(がもう)郡に移された。671年学職頭(ふみのつかさのかみ)に任じられた。滋賀県日野町に鬼室神社がある。
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鬼室集斯 きしつ-しゅうし
?-? 百済(くだら)(朝鮮)の学者。
鬼室福信の子か。7世紀半ばに来日。天智(てんじ)天皇4年(665)百済再興をめざした福信の功績により小錦下(しょうきんげ)の位をさずけられる。8年余自信(よ-じしん)らとともに近江(おうみ)(滋賀県)蒲生(がもう)郡にうつされ,10年学職頭(ふみのつかさのかみ)となった。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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鬼室集斯
きしつしゅうし
古代,天智天皇の頃百済から帰化した学者。天智4 (665) 年2月に百済の官位階級を考えあわせて,小錦下 (しょうきんげ) を授けられた。滋賀県蒲生郡日野町小野 (この) に墓があり,現在,神社として祀られている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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