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鬼室集斯 きしつしゅうし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鬼室集斯
きしつしゅうし

古代,天智天皇の頃百済から帰化した学者。天智4 (665) 年2月に百済の官位階級を考えあわせて,小錦下 (しょうきんげ) を授けられた。滋賀県蒲生郡日野町小野 (この) に墓があり,現在,神社として祀られている。

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百科事典マイペディアの解説

鬼室集斯【きしつしゅうし】

日本書紀》に見える百済(くだら)貴族。660年の百済滅亡後,国(わこく)の援助を得て復興運動の中心となった鬼室福信の近親とされる。663年白村江(はくそんこう)の戦後日本に亡命。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

鬼室集斯 きしつ-しゅうし

?-? 百済(くだら)(朝鮮)の学者。
鬼室福信の子か。7世紀半ばに来日。天智(てんじ)天皇4年(665)百済再興をめざした福信の功績により小錦下(しょうきんげ)の位をさずけられる。8年余自信(よ-じしん)らとともに近江(おうみ)(滋賀県)蒲生(がもう)郡にうつされ,10年学職頭(ふみのつかさのかみ)となった。

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朝日日本歴史人物事典の解説

鬼室集斯

生年:生没年不詳
百済滅亡(660)後に日本に亡命した百済の貴族。天智4(665)年2月,百済の官位と日本の冠位がどのように対応するかを定めたとき,本来は日本の山位に相当するはずの百済の達率であったが,百済復興戦に尽力した鬼室福信の功によって小錦下の位を授けられているので,あるいは福信の子か。同8年,余自信ならびに男女七百余人と共に近江国蒲生郡(滋賀県蒲生郡)に移住させられた。同10年1月にはのちの令制の大学寮の長官に相当する学頭職であったことが『日本書紀』にみえる。墓は滋賀県日野町の鬼室神社の境内にある。<参考文献>胡口靖夫「鬼室集斯墓をめぐって」(『日本書紀研究』11号)

(清田善樹)

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世界大百科事典 第2版の解説

きしつしゅうし【鬼室集斯】

7世紀半ばに渡来した百済貴族。生没年不詳。百済の武王の甥で660年の百済王都陥落後に国家再興に奮闘した鬼室福信の子か近親とみられる。663年(天智2)8月の白村江の戦に日本軍が敗れると,翌月余自信らと日本に亡命,665年福信の功によってとくに小錦下の冠位を授けられ(本位は達率),669年に百済男女700余人とともに近江国蒲生郡に移し置かれ,671年正月に学職頭に任命された。滋賀県蒲生郡日野町小野の西宮境内に鬼室集斯の墓なるものがあるが確かではない。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鬼室集斯
きしつしゅうし

生没年不詳。百済(くだら)の高官。渡来人。鬼室福信(ふくしん)の子か。来日の年月、理由など未詳。665年(天智天皇4)福信の功績によって小錦下の位を授けられる。また近江(おうみ)朝廷では彼の学識が重んじられ、671年には学職頭(ふみのつかさのかみ)に任じられている。集斯の墓は滋賀県蒲生(がもう)郡日野町大字小野の鬼室神社に「鬼室集斯墓」「朱鳥三年(戊子)十一月(歿)」の銘文をもつものがあるが、その真偽には議論がある。[鈴木靖民]

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