倭
わ
wiと発音された可能性がある。本来的には7世紀以前の中国・朝鮮での日本に対する呼称であるが、冊封(さくほう)体制内で自称国号としても援用された。倭の字は委とも表記される場合がある。意味は一人称の吾(わ)、従順な人、などの見解があるが不明。倭に関する史料上の初見は中国の地理書『山海経(せんがいきょう)』(戦国~秦(しん)・漢時代成立)の「倭は燕(えん)に属す」、雑家書『論衡(ろんこう)』(90成立)の断片的記事であるが、実態はわかっていない。『漢書(かんじょ)』地理志には「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国」、『後漢書』東夷(とうい)伝には「使駅漢に通じる者、三十国許(ばかり)」「建武中元二年、倭の奴国(なこく)奉貢朝賀」などとみえ、中国王朝下の冊封体制において倭の「国」々が統合されている過程がうかがえる。『三国志』魏書倭人条を根拠に、近年、朝鮮南部も倭とする見解が出されているが、「倭人は、帯方(たいほう)東南大海中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す」などを細かに検討すれば、倭は九州・四国・中国地方を中心とする西日本と考えるのが妥当である。4世紀末の高句麗(こうくり)好太王碑文、5世紀の『宋書(そうじょ)』倭国伝の倭は大和(やまと)王権と考えるのが一般的である。倭はやがて「ヤマト」と訓じられ、大和を示す語となった。7世紀後半以降、わが国の称号は日本となるが、倭と日本の関係について『旧唐書(くとうじょ)』は、「日本国は倭国の別種なり、其(そ)の国日辺に在るを以(も)って名となす。或(あるい)は曰(い)う。倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す。或は云(い)う。日本は旧小国、倭国の地を併す」と論じている。
[関 和彦]
『鈴木靖民著『古代国家史研究の歩み』(1980・新人物往来社)』▽『関和彦×『邪馬台国論』(1983・校倉書房)』
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倭
わ
Wo; Woe
委とも書く。中国,朝鮮で日本のことを呼んだ古称。文献上では漢代の『山海経』の海内北経に「倭は燕に属す」とあるのが初見。確実なものとしては1世紀後半頃班固が撰した『漢書』地理志に「楽浪の海中に倭人あり,分れて百余国をなす…」とある記事である。朝鮮でもすでに高句麗の広開土王碑にみえる。聖徳太子以降,日本人がみずから日本と称するまでは,倭の五王が倭国王と自称したことでも明らかなように,日本人自身も中国と通交する場合は倭と称していた。中国で日本と称するようになったのは唐代以降である。倭の語源については諸説あり,定説はない。
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倭
わ
中国・朝鮮の史書や金石文に記された日本および日本人の古称
中国と通交するときは,日本の天皇自身もみずから倭国王と称した(倭の五王)。『漢書』地理志に「楽浪海中に倭人あり,分かれて百余国を為す」とあり,また朝鮮の高句麗 (こうくり) の広開土王の碑文にも倭の字が見られる。倭の存在は,前漢の武帝が朝鮮に楽浪郡など4郡を設置して以来,中国に知られたらしい。「日本」を使ったのは聖徳太子以降で,中国では『唐書』に「倭国は日本国の別称」と記されている。
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倭【わ】
日本の古名。《漢書(かんじょ)》に〈楽浪(らくろう)海中に倭人あり〉とあるのが最古。語義については日本語の一人称代名詞〈わ〉(我・吾)によるとの説などがある。7世紀から日本と自称,7世紀後半まで〈ヤマト〉の宛字(あてじ)として使用,8世紀から中国でも日本と呼ぶようになった。
→関連項目安康天皇|異称日本伝|伊都国|允恭天皇|鬼室集斯|狗奴国|投馬国|臺與|日本|反正天皇
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倭
わ
古代,中国・朝鮮で日本のことを呼んだ名称
『漢書』地理志・『後漢書』東夷伝・『魏志』倭人伝・『宋書』倭国伝などに前1世紀ころから7世紀ころまで,この名称で日本のことが記録されている。「日本」の始用は推古朝や天武朝などの説がある。日本人のことは倭人と称した。
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デジタル大辞泉
「倭」の意味・読み・例文・類語
わ【×倭/和】
日本人の住む国。古代、中国から日本を呼んだ名。
(和)日本のものであること。日本的であること。「和の技術」「和に親しむ」
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わ【倭】
7世紀以前の日本の呼び名。中国人が付けた名であるが,対外関係では7世紀後半まで自称として使われていた。日本語の一人称代名詞〈わ〉(吾)によるとする説が古くから唱えられている。最近は身長,体型など人種的特徴によるとする説もある。後漢に成立した《説文解字》に〈倭は順(しなやか)なる貌(すがた)なり。人に従い委の声〉とある。転じて背が丸く曲がって低い人を指すといわれる。なお倭はもと委と書いたと説くのは《経典釈文》の誤解。
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世界大百科事典内の倭の言及
【加羅】より
…また,新羅や日本との関係記事が,国交や戦闘など国家間の交渉記事となっているが,本来の伝承では,それぞれの地域住民の接触交渉を伝えたものとみられる。《三国史記》新羅本紀の加羅関係記事は,倭関係記事を挿入したため,5世紀後半の国家間の交渉記事を遡及させている。《日本書紀》も同様で,〈百済記〉などの朝鮮側史料は510年代以降の史実を遡及させており,この時期の日本側史料は朝鮮側史料に合わせたものが多く,なかには編纂直前の8世紀初頭につくられた記事もある。…
【百済】より
…しかしこれらの伝承記事は,6世紀中葉の事情をもとに年代を遡及させた記事で,8世紀初頭に作られたものとみられる。397年に阿莘王は南下する高句麗広開土王の勢力と対抗するため,太子腆支を人質として倭国に送った。また,百済が倭と結んで396年以降5度にわたって高句麗と戦ったことは,広開土王碑文にもみられる。…
【日本】より
… また,諸外国における日本に対する関心の系譜については〈日本研究〉の項目を参照。
【国号】
日本では大和政権による統一以来,自国をヤマトと称していたようであるが,中国や朝鮮では古くから日本を倭(わ)と呼んできた。《前漢書》《三国志》《後漢書》《宋書》《隋書》など中国の歴史書や,石上(いそのかみ)神宮の七支刀の銘,高句麗の広開土王の碑文も,みな倭,倭国,倭人,倭王,倭賊などと記している。…
【弥生文化】より
…そして同時に,吉備が一貫して独自の墓をもち,方形周溝墓を受け入れない点も注意をひく。
[〈国〉の誕生]
中国の史書によると,前1世紀の倭(西日本)は〈百余国〉に分かれていた(《漢書》)。紀元57年(後漢の中元2)には倭の奴国(なこく)の王が光武帝に朝貢した(《後漢書》)。…
※「倭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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