鳥屋村
とやむら
[現在地名]岐阜市宇佐四丁目・雨踊町・本荘町・本荘・本荘西・南本荘一条通・南本荘二条通・南本荘三条通・南本荘四条通・本荘中ノ町・久保見町・三ッ又町・松原町・菊地町・鍵屋西町・鍵屋中町・鍵屋東町・都通・桜通・島田西町・島田中町・島田東町・大池町・権現町・梅園町・熊野町・菊井町・豊岡町・新興町・富沢町・瑞穂町・香取町・雲雀ヶ丘・鹿島町・早苗町・寿町・吹上町・如月町・錦町・羽衣町・此花町・葭町・敷島町・三歳町・稲荷町・千鳥町・香蘭町・千手堂北町・千手堂中町・千手堂南町・元宮町・五反田町・光明町・木ノ本町・坂井町・新栄町・花園町・西問屋町・日ノ本町・寺島町
北は長良川、西は鏡島村・西庄村、南は宇佐村・清村。「新撰美濃志」に加納の北西にあり、本庄鳥屋村というとあり、観音寺村・三股村、森屋村・荒屋村・中村・島田村・鍵屋村・千手堂村は鳥屋の内と記す。
鳥屋村
とやむら
[現在地名]津久井町鳥屋
青野原村の南に位置し、東は青山村、西は青根村と足柄上郡玄倉村(現山北町)、南は愛甲郡宮ヶ瀬村(現清川村)に接し、村の中央を串川が東流し、この川沿いに集落がある。元亨三年(一三二三)の北条貞時十三年忌供養記(県史二)に、供養に際し要木を採集する所々として、「相模国奥三保屋形山給主合田左衛門三郎入道、鳥屋山給主本間五郎左衛門尉」がみえる。小田原衆所領役帳に「鳥屋之村」として「四貫八百八拾文 井上左京進、四貫五百文 同帯刀左衛門、弐貫文 同源七、三貫文 同孫右衛門、七百文 同五郎左衛門、三貫文 同源五・同三郎左衛門、三貫文 同主計助、弐貫文 まいし」とある。
鳥屋村
とやむら
[現在地名]大和町鶴巣 鳥屋
七北田丘陵の北縁、南からの西川と東南からの鹿川(小鶴沢川)がここで合流し、北流して吉田川氾濫原の黒川耕土に出る。多賀城から利府(現宮城郡利府町)を経て下草・吉岡に至る古代の駅路が南北に通る。北・西は北目大崎村、南東は幕柳村、南は今泉村(現富谷町)。地内に古代遺跡の多いところから黒川郡内の要地と思われる。中世は黒川郡南迫の東辺に位置し、鎌倉末期まで北条得宗領、戦国期の一五世紀後半頃から黒川氏の所領となって一六世紀末まで支配したとみられる(大和町史)。
鳥屋村
とやむら
[現在地名]鰍沢町鳥屋
長知沢村の南西、富士川の支流大柳川左岸の山腹に位置し、対岸は柳川村、四、五町東に鰍沢村の枝郷梅久保・鬼島がある。慶長古高帳に村名がみえ、高六八石余、幕府領。寛文一一年(一六七一)の検地帳(県立図書館蔵)では高四四石余、上田二反余・中田三反余・下田三反余・下々田一反余、上畑一反余・中畑一町余・下畑二町五反・下々畑四町一反余・山畑九町一反余・山下畑一四町八反余、屋敷二反余。
鳥屋村
とやむら
[現在地名]斐川町鳥井
北流する斐伊川が東流し始める右岸の水田地帯にあり、東は今在家村、南は富村、西は井上村。北は斐伊川を挟んで楯縫郡東林木村(現出雲市)・美談村(現平田市)に接する。初め神門郡に属した。村名の由来は鳥越川の川下の岸に大岩があり鵠が群れ、のちにここに鳥舎をつくったためという(斐川町史)。文政七年(一八二四)の有高輪切帳写(県立図書館蔵)に記載された輪は大坪輪・堂蓮輪・島田輪・馬潟輪。正保国絵図に村名がみえる。万治二年(一六五九)の出東郡鳥屋村御検地帳では田方四町二反余・分米三二二石余、畑方四町二反余・分米二九石余、屋敷数一六(うち役屋敷一〇)とある。
鳥屋村
とりやむら
[現在地名]橿原市鳥屋町
貝吹山の北方、久米村西部に隣接立地する。「日本書紀」神武天皇二年二月二日条の「築坂邑」とされ、宣化天皇の身狭桃花鳥坂上陵治定地で、同陵は益田池碑文の「鳥陵」とされる。鳥屋は鳥(桃花鳥の上略)屋(野)で(北浦定政「打墨縄」説)、「万葉集」巻一六の都久野の地か。
中世、越智氏庶流に鳥屋氏があり、文明(一四六九―八七)頃には越智十勇老のなかに鳥屋右京亮頼房が名を連ね(越智氏系図)、明応六年(一四九七)一〇月、畠山尚順が越智郷を焼払った時、鳥屋左京亮吉宗父子(子息一六歳)が討死、当時、「子を思ふ焼野の雉子ほろほろと涙も越智の鳥屋啼らむ」とうたわれた(畠山記)。
鳥屋村
とやむら
[現在地名]柳津町牧沢
明神ヶ岳の西斜面中腹に位置し、海老山村(現会津高田町)に至る道に散居する。北西は牧沢村、南は遅越渡村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に戸屋とあり、高四四石余。寛永二〇年(一六四三)から南山御蔵入領となり、延宝九年(一六八一)の滝谷組高反別古記(片山家文書)では高六七石余、免四ツ一分、家数一四、竈二〇、男三三・女二九とある。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高九三石余。
鳥屋村
とりやむら
[現在地名]荒川町鳥屋
荒川左岸に位置する本流に最も近い集落。西は金屋村、南は大津村に接する。かつては標高四―五メートルの中島であったという。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「色部分とりや村 下」とみえ、本納一五石五斗・縄高一六二石一斗一升、家一一軒とある。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、文政一〇年(一八二七)一橋領。正保国絵図では高三五〇石余。貞享元年(一六八四)の村上藩領分郷村高辻帳では二三〇石余。農間には鮭漁を行い、川中に杭を立てて囲を作るなど川を締切って持網を用いる漁法をとっていた。
鳥屋村
とやむら
[現在地名]朝地町鳥田 鳥屋
田夫時村の北東、城山の東麓山中にある。正保郷帳に村名がみえ、田高一七石余・畑高三八石余、一万田郷に属し、茅山有、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高八九石余。安永七年(一七七八)には梨原組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。山神社は岡藩から田高五斗余を寄進されていた(地方温故集)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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