鳥海柵(読み)とのみのさく

日本の城がわかる事典「鳥海柵」の解説

とのみのさく【鳥海柵】

岩手県胆沢(いさわ)郡金ケ崎町にあった、平安時代末期の安倍氏の城柵。前九年のの際に、奥六(おくろく)郡を地盤とした豪族の安倍氏は源頼義・源義家親子の率いる朝廷の軍勢を迎え撃つため、12の砦(十二柵)をつくった。これは「安倍氏十二柵」と呼ばれているが、鳥海柵はその一つで、十二柵の中で唯一その存在が確認されている柵である。また、この柵の名は、この戦いを記録した『陸奥話記』にも登場し、棟梁の安倍頼時(よりとき)が戦死した場所としても知られる。鳥海柵の所在地については、古くから諸説あり確定していなかったが、近年の金ケ崎町教育委員会による調査で、胆沢(いさわ)城のあった場所の北方、金ケ崎町内の胆沢川北岸の段丘の上でほぼ間違いないことがわかった。また、この調査では鳥海柵が東西約 300m、南北150mほどの規模であることも明らかになった。この柵の主は、安倍頼時の三男で鳥海三郎と呼ばれた安倍貞任(さだとう)の弟の宗任(むねとう)と伝えられる。難攻不落を誇ったが、1062年(康平5)9月11日、源氏・清原氏の連合軍に攻略された。JR東北本線金ケ崎駅から車で約10分。◇「とのみのき」、弥三郎館(やさぶろうたて)ともいう。

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日本大百科全書(ニッポニカ)「鳥海柵」の解説

鳥海柵
とりうみのき

岩手県胆沢(いさわ)郡金ヶ崎町にあった平安時代の豪族安倍(あべ)氏の城柵(じょうさく)。国指定史跡。前九年の役(1051~1062)の際安倍頼時は、源頼義(よりよし)の勧誘に応じた安倍富忠と戦い、流れ矢に当たり、この柵に帰り死んでいる(1057)。また源氏・清原氏連合軍の攻撃(1062)では、衣川(ころもがわ)関の陥落後、安倍氏はこの柵に拠(よ)るが、戦わずしてさらに北の厨川柵(くりやがわのき)へ走り、最後の抗戦をした。

[庄司 浩]

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精選版 日本国語大辞典「鳥海柵」の解説

とりのみ‐の‐き【鳥海柵】

前九年の役(一〇五一‐六二)のときの安倍氏の主城の一つ。頼時の子宗任(鳥海三郎)の居城。岩手県胆沢郡金ケ崎町西根・鳥海(とのみ)定される。彌三郎館。とりみのさく。

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