日本大百科全書(ニッポニカ) 「前九年・後三年の役」の意味・わかりやすい解説
前九年・後三年の役
ぜんくねんごさんねんのえき
11世紀の中ごろから後半にかけて奥羽で行われた戦役。
[庄司 浩]
前九年の役
陸奥(むつ)の奥六郡を領し、朝命に抗し貢賦(こうふ)を納めなかった安倍(あべ)氏(俘囚長(ふしゅうちょう))が、頼時(よりとき)(頼良)の代になり衣川(ころもがわ)の南に進出したので、陸奥守(むつのかみ)藤原登任(ふじわらのなりとう)が攻めたが敗れたのがきっかけである。朝廷は1051年(永承6)武門の名将源頼義(みなもとのよりよし)を陸奥守に任じ、1053年(天喜1)には鎮守府将軍も兼ねさせ、安倍氏の制圧にあたらせた。赴任当初、頼時は帰順し、戦乱は起こらなかった。しかし1056年頼義の任期終了の年、頼時は子の貞任(さだとう)が人馬殺傷の嫌疑で罰せられようとしたのを不満として反旗を翻し、朝廷も改めて頼義に討伐を命じた。翌1057年頼時は、頼義の懐柔に応じた安倍富忠の説得に赴き戦死した。しかし子の貞任、宗任(むねとう)らは依然抗戦を続け、同年11月の黄海(きのみ)の戦いでは頼義軍は完敗した。貞任らはますます勢いを強め、藤原経清(つねきよ)のごときは衣川以南に進出して官物を徴集したが、頼義はこれを制止できなかった。1062年(康平5)春、頼義の再度の任期も終わったので、朝廷は高階経重(たかしなのつねしげ)を陸奥守に任じたが、現地民は頼義に従い、新国司の命を奉じないので、経重はすぐ帰京し、頼義が引き続き事にあたった。そして出羽山北(でわせんぽく)の豪族(俘囚主)清原(きよはら)氏に援兵を請い、同年来援した武則(たけのり)らとともに8月から9月にかけて、小松柵(こまつのき)、衣川関(ころもがわのせき)、鳥海柵(とりうみのき)などを落とし、9月17日には最後の拠点厨川柵(くりやがわのき)も攻略し、貞任らを殺し、宗任らを降伏させた。翌1063年2月には貞任らの首が京都へ送られ、朝廷は頼義の功を賞し伊予守に、頼義の長子義家(よしいえ)を出羽守、武則を鎮守府将軍に任じた。頼義は1064年入京、随伴した宗任らは伊予や大宰府(だざいふ)に配流された。この役で頼義・義家父子と東国武士団が生死をともにしたこと、役後頼義が彼らの恩賞に努力したことから、その主従関係がいっそう進展したことは注目される。
この役は、頼義の下向から討滅まで12年間(1051~62)を要したので「奥州十二年合戦」(『吾妻鏡(あづまかがみ)』)などとよばれたが、鎌倉時代中期から後役もあわせたものと思い違え、前九・後三に振り分けたものと考えられる。後役も実際には5年間(1083~87)かかっている。なお、軍記物語の先駆といわれる『陸奥話記』はこの戦乱を描写している。
[庄司 浩]
後三年の役
清原氏は武則が鎮守府将軍となり、安倍氏の旧領もあわせますます強勢となった。しかし孫の真衡(さねひら)のとき、その専制的な姿勢に複雑な家族関係が絡んで内訌(ないこう)が起こった。一族の長老吉彦秀武(きみこひでたけ)が真衡に反したのが発端で、これに真衡の父母の違う弟清衡(きよひら)、実弟家衡(いえひら)が同調した。この内訌の最中1083年(永保3)源義家が陸奥守となり急ぎ赴任して介入し、真衡を助け清衡、家衡を敗走させた。しかし真衡は急死し、清衡、家衡は降(くだ)った。そこで義家は奥六郡を二分し2人に与えたため、今度は両者の間で争いが生じ、1086年(応徳3)義家は清衡を助けて家衡を沼柵(ぬまのき)に攻めたが、大雪で撤退した。家衡の叔父武衡はこれを聞き家衡方に加わった。義家は翌1087年(寛治1)9月これを金沢柵(かねさわのき)に攻め、糧道を断ち、11月攻略、武衡らを殺した。義家が飛ぶ雁(かり)の列の乱れで伏兵を知った話や、義家の弟新羅三郎(しんらさぶろう)(源義光(よしみつ))が官をなげうち都から救援に駆けつけた話はよく知られている。朝廷は終始これを義家の私闘とみなし、恩賞の沙汰(さた)はなかった。奥羽の安倍、清原両氏の地盤は清衡が継承し、奥羽の覇者として平泉藤原氏三代の栄華の基礎を築いた。しかしこの役も源氏の東国武士団主従化のいっそうの契機となったことは疑いない。役後源氏の武門の棟梁(とうりょう)化が一段と進んだことは、朝廷が諸国の百姓が義家に田畠(でんぱた)の公験(くげん)(土地の所有を認める官符の証明書)を寄進するのを禁じ、義家のたてた荘園(しょうえん)を停止させたことからも知られる。この両役は、源氏が東国に確固たる地盤を築き、後の鎌倉幕府創設の基礎を定めた点でとくに注目される。
[庄司 浩]
『新野直吉著『古代東北の覇者』(中公新書)』▽『庄司浩著『辺境の争乱』(教育社歴史新書)』