つるざわ‐せいしち【鶴沢清七】
- 義太夫節の三味線方。初世。通称松屋清七。二世鶴沢友次郎に入門。寛政(一七八九‐一八〇一)から文化(一八〇四‐一八)初年に活躍。「朱」と称する三味線奏法譜を考案した。寛延元~文政九年(一七四八‐一八二六)
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鶴沢清七 (つるざわせいしち)
義太夫節の三味線演奏者。(1)初世(1748-1826・寛延1-文政9) 鶴沢文蔵(2世鶴沢友次郎)門下で初名鶴沢清二郎。通称松屋。引退後3世鶴沢友次郎を襲名。現在使用されている三味線の朱(奏法譜)のもととなる譜を,野崎検校門弟信都(のぶいち)の《律呂三十六声麓の塵》の影響下に創案し,後世の三味線方から崇拝されている。1781年(天明1)の《儀太夫節合控張》ほか6冊が最初の朱の例である。(2)2世(?-1840(天保11)) 初世門下で,前名勝治郎。通称笹屋。初世,2世豊竹巴太夫を弾く。(3)3世(?-1856(安政3)) 2世門下。泰吉から勝右衛門となり,1842年(天保13)3世をつぐ。但馬の出身で,剛腕だったので,〈但馬の鬼勝〉の異名で鳴らした。幕末期最高の名人3世竹本長門太夫の相三味線。(4)4世 生没年不詳。幕末から明治前半に活躍。花沢佐吉,鶴沢文駄,森助から4世となり,晩年勝治郎となる。(5)5世(1828-1901・文政11-明治34) 広吉,九蔵,3世勝右衛門をへて1885年5世を襲名。(6)6世(1852-1920・嘉永5-大正9) 勝作,3世綱造,4世勝右衛門となり,引退後6世をつぐ。
執筆者:井野辺 潔
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鶴沢 清七(5代目)
ツルザワ セイシチ
- 職業
- 義太夫節三味線方(文楽)
- 専門
- 人形浄瑠璃
- 本名
- 浅田 嘉七
- 別名
- 幼名=広吉,前名=鶴沢 九蔵(2代目),鶴沢 勝右衛門(3代目)
- 生年月日
- 文政11年 4月15日
- 出生地
- 摂津国土塔町(大阪府)
- 経歴
- 幼少から鶴沢九蔵(のちの2代勝右衛門)に師事し、天保12年文楽座で初舞台。弘化4年2代九蔵を、安政2年3代勝右衛門を襲名。元治元年退座後は素人義太夫の育成につとめた。明治18年5代清七を襲名。技芸にすぐれ、清廉な人柄は義太夫界の鑑とされた。
- 没年月日
- 明治34年 10月12日 (1901年)
鶴沢 清七(4代目)
ツルザワ セイシチ
- 職業
- 義太夫節三味線方(文楽)
- 専門
- 人形浄瑠璃,三味線
- 別名
- 前名=花沢 佐吉,鶴屋 文駄(3代目),晩名=鶴沢 勝次郎
- 出生地
- 大阪
- 経歴
- 2代花沢伊左衛門の門から3代鶴沢清七に入門。文政12年正月大阪御霊社内芝居「本朝廿四孝」が初舞台。天保7年正月稲荷文楽芝居で文駄と改名。安政4年4代目を襲名。立者として重用された。通称ざこば鶴屋。明治18年3代目鶴沢勝右衛門に清七5代を譲り、鶴沢勝次郎と改名、三絃の総後見役として門弟育成に当たった。
- 没年月日
- 明治20年 (?) (1887年)
鶴沢 清七(6代目)
ツルザワ セイシチ
- 職業
- 義太夫節三味線方(文楽)
- 専門
- 人形浄瑠璃,三味線
- 本名
- 前田 鹿之助
- 別名
- 前名=鶴沢 綱造(3代目),鶴沢 勝右衛門(4代目)
- 生年月日
- 嘉永5年 7月14日
- 出生地
- 大坂(大阪府)
- 経歴
- 5代目清七に入門、3代目綱造、4代目勝右衛門と称して明治32年引退したが、のち36年6代目清七を襲名した。
- 没年月日
- 大正9年 7月29日 (1920年)
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鶴沢 清七(6代目)
ツルザワ セイシチ
江戸時代末期〜大正期の義太夫節三味線方(文楽)
- 生年
- 嘉永5年7月14日(1852年)
- 没年
- 大正9(1920)年7月29日
- 出生地
- 大阪
- 本名
- 前田 鹿之助
- 別名
- 前名=鶴沢 綱造(3代目),鶴沢 勝右衛門(4代目)
- 経歴
- 5代目清七に入門、3代目綱造、4代目勝右衛門と称して明治32年引退したが、のち36年6代目清七を襲名した。
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鶴沢清七(5代)
没年:明治34.10.12(1901)
生年:文政11.4.15(1828.5.28)
幕末明治期の義太夫三味線の名手。豊沢団平や豊沢広助と並び称された。本名浅田嘉七。大坂の生まれ。鶴沢九蔵(のち2代目勝右衛門)の門下で,天保12(1841)年広吉の名で初出座。弘化4(1847)年に師名を継いで九蔵と改め,次いで3代目勝右衛門となる。3代目竹本長門太夫や3代目清七の教えも受け,両人没後の元治1(1864)年,芝居から退いて素人浄瑠璃の育成に努めた。明治18(1885)年清七を相続。清廉高潔な人柄は義太夫界の鑑と称賛され,6代目清七ほか多くの門下を輩出した。<参考文献>柳香散史「鶴沢清七」(『新小説』1902年7月号)
鶴沢清七(初代)
没年:文政9.7.22(1826.8.25)
生年:寛延1(1748)
江戸中・後期に活躍した義太夫節三味線弾き。初代文蔵の門弟。通称松屋。天明2(1782)年に清二郎から清七に改名。寛政1(1789)年に三味線筆頭になり文化9(1812)年ごろまで活躍していた。引退後は3代目友次郎を名乗った。安永ごろから朱と呼ばれる記譜法の改良に工夫を重ね,平仮名48字などにより三味線の勘所を示す現行の朱章の基を確立した。<参考文献>『義太夫年表/近世篇1,2』,4代目竹本長門太夫著・木谷蓬吟校訂『浄瑠璃大系図』(音曲叢書6巻),井野辺潔『浄瑠璃史考説』
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鶴沢清七
つるざわせいしち
義太夫(ぎだゆう)節の三味線。初世(1748―1826)は2世鶴沢友次郎の門弟清二郎で、1782年(天明2)に清七と改名した。俗に松屋清七とよび、三味線の楽譜「朱(しゅ)」を発明したと伝えられている。1808年(文化5)ごろに引退し、3世鶴沢友次郎を継いだ。2世(?―1840)は豊竹巴太夫(とよたけともえだゆう)を弾いて艶物(つやもの)に名を上げ、また3世(?―1856)は、幕末の名人竹本長門太夫(ながとだゆう)の相三味線を長く勤めた。なお、健腕家として昭和初期に活躍した4世鶴沢綱造(1882―1957)は、6世清七(1852―1920)の実子である。
[倉田喜弘]
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鶴沢清七(1世)
つるざわせいしち[いっせい]
[生]寛延1(1748)
[没]文政9(1826).7.22.
義太夫節の三味線方。通称松屋清七。宝暦 10 (1760) 年竹本座に初出座。天明2 (82) 年清二郎から清七と改名。寛政1 (89) 年三味線筆頭となる。引退後3世鶴沢友次郎を名のった。安永年間 (1772~81) の頃,いろは 48文字を使って三味線のツボ (勘所) を示す「朱」という記譜法を考案した。その後改良されて今日まで使用されており,義太夫節の習得・伝承・演奏に多大の貢献をしている。
鶴沢清七(3世)
つるざわせいしち[さんせい]
[生]?
[没]安政3(1856).9.23.
義太夫節の三味線方。通称但馬の鬼勝。2世鶴沢清七の門弟。初名泰吉。勝右衛門を経て天保 13 (1842) 年3世を襲名。天保~安政年間 (1830~60) 頃 26年間にわたり3世竹本長門太夫の相三味線をつとめた。
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鶴沢清七(3代) つるざわ-せいしち
?-1856 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
2代鶴沢清七の門弟。3代竹本長門太夫(ながとだゆう)の三味線方をつとめた。天保(てんぽう)13年3代清七を襲名。4代鶴沢友次郎,4代鶴沢寛治とならんで名手と評された。安政3年9月23日死去。但馬(たじま)(兵庫県)出身。初名は鶴沢泰吉。前名は鶴沢勝右衛門(初代)。通称は但馬の鬼勝。
鶴沢清七(初代) つるざわ-せいしち
1748-1826 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
寛延元年生まれ。大坂の人。義太夫節。初代鶴沢文蔵(2代鶴沢友次郎)の門下。天明2年鶴沢清七を名のる。引退後,3代鶴沢友次郎を襲名。俗に朱(しゅ)とよばれる三味線の記譜法を考案した。文政9年7月22日死去。79歳。初名は鶴沢清二郎。通称は松屋清七。
鶴沢清七(5代) つるざわ-せいしち
1828-1901 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
文政11年4月15日生まれ。2代鶴沢勝右衛門の高弟。元治(げんじ)元年引退して後進を育成。明治18年5代清七を襲名した。明治34年10月12日死去。74歳。大坂出身。本名は浅田嘉七。初名は鶴沢広吉。前名は鶴沢九蔵(2代),鶴沢勝右衛門(3代)。
鶴沢清七(2代) つるざわ-せいしち
?-1840 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
大坂の人。初代鶴沢清七の門弟。大坂,江戸で活躍。文政12年2代清七を襲名。初代・2代豊竹巴太夫(ともえだゆう)の三味線方をつとめた。13年引退して茶商をいとなむ。天保(てんぽう)11年9月死去。初名は鶴沢勝次郎。通称は笹屋清七。
鶴沢清七(6代) つるざわ-せいしち
1852-1920 幕末-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
嘉永(かえい)5年7月14日生まれ。5代鶴沢清七の門人。明治32年引退。36年6代清七を襲名した。大正9年7月29日死去。69歳。本名は前田鹿之助。初名は鶴沢勝作。前名は鶴沢綱造(3代),鶴沢勝右衛門(4代)。
鶴沢清七(4代) つるざわ-せいしち
?-? 江戸後期-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
大坂の人。2代花沢伊左衛門の門より3代鶴沢清七の門にうつる。安政4年(1857)4代清七を襲名した。明治18年引退,勝治郎と改名。初名は花沢佐吉。前名は鶴屋佐吉,鶴沢文駄(3代)。別名に森助。通称はざこば鶴屋。
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鶴沢 清七(6代目) (つるざわ せいしち)
生年月日:1852年7月14日
江戸時代-大正時代の義太夫節三味線演奏者
1920年没
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世界大百科事典(旧版)内の鶴沢清七の言及
【朱】より
…浄瑠璃本などに朱で記入するところから発した名称。古来,種々の記譜法があったが,現在,一般に使用されているのは[鶴沢清七]が1781年(天明1)に創案したのを,幕末ごろ改めたもの。三味線の勘所(かんどころ)(左手の指でおさえる場所)を速記しやすい変体仮名で表し,補助符号,略符などを併用する。…
※「鶴沢清七」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」