鹿子木庄(読み)かのこぎのしよう

日本歴史地名大系 「鹿子木庄」の解説

鹿子木庄
かのこぎのしよう

現在の熊本市北部の清水しみず町・池田いけだ一―四丁目・花園はなぞの一―七丁目および飽託郡北部ほくぶ町の大部分と菊池郡西合志にしごうし町の一部にまたがる。京町きようまち台地を中央に、東部坪井つぼい川流域の東庄と、西部井芹いせり川流域の西庄に分れる。現在北部町には大字として鹿子木かなこぎの地名がある。

〔成立〕

のちに鹿子木庄に結びつく権利は、長元二年(一〇二九)沙弥寿妙が開発私領の公験を得たことに始まる。さらにその子重方も長暦二年(一〇三八)と永保四年(一〇八四)に公験を得た。その子高方は応徳三年(一〇八六)、国衙の非法に対抗するため、大宰大弐藤原実政に寄進し、現地支配権の地頭預所職は高方の子孫が継承することを条件に、実政が四〇〇石の上納を受ける大弐御領が成立した(長寛二年一二月二七日「中原親貞解」・欠年「鹿子木庄事書案」東寺百合文書)。しかし実政は寛治二年(一〇八八)罪を得て伊豆に配流されたため、その権利は実政の子孫ではなく、閑院流藤原氏で白河院の近臣春宮大夫公実に伝えられ、娘婿の大納言経実を経て、大治六年(一一三一)以前に(この年経実没)、子の刑部大輔隆通(法名願西)に伝えられた。そして保延五年(一一三九)一一月には荘園として立券された。しかし願西は微力で国衙の巻返しを防げず、女子の一人が仕えていた鳥羽院皇女の高陽院内親王(高陽院養女)に寄進し、四〇〇石中二〇〇石を上納して本家と仰ぎ、願西は領家となった。高陽院内親王の没後、本家職はその菩提のためにつくられた御室の院家勝功徳院(落慶供養は久安六年)に寄せられ、さらに美福門院の計らいで京都仁和寺の管領するところとなった(以上「鹿子木庄事書案」のほか、欠年「鹿子木庄相伝次第」教王護国寺文書・安元二年三月二日「鹿子木庄文書目録」東寺百合文書など)

しかしその後も荘支配は安定せず、承安元年(一一七一)には国司長光が荘内半分を収公し、困った願西は女子通子(尼清浄)を通じて建春門院(平滋子)を頼り、その力をもって後白河院庁の下文を得、再度立券の手続がとられた。それにもかかわらず国司の収公はやまず、建久五年(一一九四)には国司藤原敦綱が加納田の停廃をさけび、記録所の問状使や府使・国使ら大勢をもって荘をつぶそうとした(治承四年三月日「尼清浄解」・建久六年四月日「深賢申文」僧綱申文紙背文書)。このように国司の収公が相次いだのは、当庄が決して一円的な不輸の荘園ではなく、多くの半不輸部分を含んでおり、荘側がその一円不輸化を企てていたからと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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