黒人の権利向上と人種差別解消に向け、1950~60年代に本格化した米国の社会運動。けん引したキング牧師らの尽力により、64年に人種差別禁止を法制化。黒人初となる2009年のオバマ大統領誕生に道を開いた。20年に広がった人種差別反対運動「ブラック・ライブズ・マター(BLM=黒人の命も大事だ)」の下地になったと指摘される。
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アフリカ系アメリカ人により、1950年代なかばから1960年代なかばにアメリカで展開された、差別の撤廃と法の下の平等、市民としての自由と権利を求める社会運動。1865年の南北戦争終結後、奴隷制は廃止され、憲法修正第14条はアフリカ系アメリカ人を市民として認めるとともに「法の下の平等」を定め、第15条は人種による選挙権の制限を禁じた。しかし、異人種間の結婚禁止といった州法は存続し、1880年代には南北戦争後の改革に逆行する諸制度が南部では設けられた。選挙権制限のため識字テストや投票税が課され、リンチを含む暴力も横行した。またジム・クロウ制度と称される人種分離制度が、学校から墓地まであらゆる施設に広がった。1894年、最高裁判所は、ルイジアナ州における鉄道車両での分離に対して、同等の設備を設ければ、人種別に施設を分離すること自体は合憲であるという判決を下した(プレッシー判決)。この「分離すれども平等」理論は、以後60年にわたり、人種分離を正当化したが、実際は黒人用施設は白人用施設より劣悪であった。
狭義の公民権運動の始まりは1950年代であるが、アフリカ系アメリカ人の運動には長い歴史がある。1909年に設立された全国黒人向上協会(NAACP)は法廷闘争を重視し、1938年の最高裁判決では、ミズーリ州立大学大学院への黒人学生の入学を勝ち取った。第二次世界大戦中には、市民として兵役といった義務を果たしながらも差別にさらされることへの不満が高まった。1941年、A・フィリップ・ランドルフA. Philip Randolph(1889―1979)によるワシントンでのデモ行進計画に対し、F・D・ルーズベルト大統領は戦時中に限り軍需工場での人種分離を禁じる大統領令を発した。
戦後、NAACPは、初等教育機関の人種統合へと目標を転じた。公立小学校での人種分離を争点とした1954年のブラウン判決において、最高裁はついに「分離すれども平等」を否定し、学校での人種分離は違憲であると断じた。しかし、判決後すぐに統合が進んだわけではなく、南部白人社会は激しく抵抗した。1956年、南部の連邦議員101名は人種統合への反対宣言を表し、最高裁を非難した。1957年、アーカンソー州リトル・ロックの高校では、黒人生徒の入学を阻むため群衆が高校を取り囲み、生徒を守るためにアイゼンハワー大統領は軍隊を派遣するに至った。1962年、ミシシッピ州では、黒人学生の州立大学への入学手続を知事自身がキャンパスで妨害し、暴動収束までに3名が死亡し多数が負傷した。
このように、生命の危険にさらされながらも、アフリカ系アメリカ人は運動を続けた。ブラウン判決と並ぶ公民権運動の高まりの契機は、アラバマ州モントゴメリーでのバス・ボイコットである。白人にバスの席を譲らなかったことでNAACPの元秘書ローザ・パークスRosa Parks(1913―2005)が逮捕されたことに端を発するボイコットは1955年から1956年末まで続き、平行した訴訟では、同市のバスの人種隔離を違憲とする最高裁判決が下された。ボイコットの指導者として名を広めたのが、キング牧師である。キングは非暴力主義に基づく直接行動を唱え、その思想は広く公民権運動の柱となった。1957年にキングを議長として設立された南部キリスト教指導者会議(SCLC)は公民権運動の中心組織である。
学生も公民権運動に大きな役割を果たした。1960年、ノースカロライナ州グリーンズボロでは、4名の黒人大学生によりシット・インと称される新たな直接行動が始まった。飲食店の白人専用席に座り、注文が応じられるまで座り続けるというものである。座り込みは各地に広がり、同年末までに5万人が参加した。さらに、図書館、ホテル、公園などでも同様の抗議が行われた。1961年、シット・インの組織化を図り、南部諸大学の学生によって学生非暴力調整委員会(SNCC)が結成され、公民権運動の主要な担い手となった。
公民権運動は、奴隷解放宣言から100年後の1963年8月のワシントン大行進、1964年公民権法、1965年投票権法の成立をもって頂点を迎えた。ケネディ大統領が提案した公民権法の成立を求めた大行進には20万人が参加し、リンカーン記念堂前で、23年前にワシントン行進を提唱したランドルフやキングをはじめとする指導者たちが演説した。1964年7月にジョンソン政権下で成立した公民権法は、州権を唱える南部諸州や自治体の抵抗に対して、連邦政府に強い権限を与えた。おもな内容として、識字テスト禁止、公共施設や教育機関での人種統合を促進するための連邦政府の権限強化、雇用差別の禁止などがあげられる。
しかし、同法成立後も、選挙権行使に対しては役人による妨害から殺害まで激しい抵抗があった。1964年夏、ミシシッピ州では北部の大学生を中心に、有権者登録を助けるフリーダム・サマー運動が展開された。運動家6人が殺害されたが、連邦政府は運動家の保護や政治参加実現のための積極的措置をとろうとはしなかった。1965年3月、より実効性のある投票権法を求め実施されたアラバマ州セルマからモントゴメリーまでの行進には2万5000人が参加した。その結果8月に成立した投票権法は、連邦政府職員に有権者登録の監視権限を与え、その後、南部のアフリカ系アメリカ人の投票率は上昇した。
さらに、1967年には異人種間の結婚を禁じる州法が最高裁判所で違憲とされ(ラビング判決)、1968年には不動産取引における差別を禁じた1968年公民権法が成立した。1969年にミシシッピ州初の黒人市長が誕生したことが象徴するように、1960年代末以降、投票率の向上によってアフリカ系アメリカ人の公職者が増加した。1990年にはバージニア州で、南北戦争直後の時期を除けば全米でも初めての黒人知事が選出された。また、就職や入学選抜にあたり歴史的な差別を考慮するという、1964年の公民権法に基づく「積極的差別是正政策」(アファーマティブ・アクション)は大学への進学機会を広げ、エリート層の醸成へとつながった。
こうした大きな成果の一方で、1960年代末には、運動の手段や目標をめぐって、公民権運動を主導した諸団体や指導者の間のほころびも顕在化するようになった。たとえば、SNCCは「ブラック・パワー」を唱え、キングやSCLCが掲げた非暴力主義とは一線を画すようになった。公民権法や投票権法の限界もまたあらわになった。北部では、南部のような法律に基づく人種分離や投票権制限は存在しなかったものの、都市における居住地区の実質的分離や貧困問題が深刻であった。1960年代後半にロサンゼルスをはじめとする都市で暴動が頻発したことはその現れであった。法の下の平等に留まらない、貧困問題といった社会的な不平等の是正策の追求という点でも諸団体は一致しなかった。さらに、ベトナム戦争の激化に伴い、公民権運動の後ろ盾であると同時にアメリカの軍事介入を深めたジョンソン政権への支持、その内政と外交政策の評価についても見解の相違が鮮明になった。こうして、統一行動がしだいに困難になり、公民権運動は収束へ向かった。
[小田悠生 2017年8月21日]
『アン・ムーディー著、樋口映美訳『貧困と怒りのアメリカ南部――公民権運動への25年』(2008・彩流社)』▽『北美幸著『公民権運動の歩兵たち――黒人差別と闘った白人女子学生の日記』(2016・彩流社)』▽『本田創造著『アメリカ黒人の歴史――新版』(岩波新書)』▽『辻内鏡人・中條献著『キング牧師――人種の平等と人間愛を求めて』(岩波ジュニア新書)』▽『ジェームズ・M・バーダマン著、水谷八也訳『黒人差別とアメリカ公民権運動――名もなき人々の戦いの記録』(集英社新書)』▽『上杉忍著『アメリカ黒人の歴史――奴隷貿易からオバマ大統領まで』(中公新書)』
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黒人や他の少数グループが,教育,雇用,住居,選挙,司法などの分野における人種差別に抗議し,白人と同等の権利の保障を要求するアメリカの運動。公民権運動がもっとも活発であったのは,1954年の合衆国最高裁判所の人種別学法違憲判決(ブラウン事件判決)から65年の投票権法の制定に至る期間である。この時期には,黒人と白人が参加した有力な運動団体(全米黒人地位向上協会(NAACP),全国都市同盟(NUL),南部キリスト教指導者会議(SCLC),人種平等会議(CORE),学生非暴力調整委員会(SNCC)など)が中心になって,南部における人種隔離制度,差別慣行を打ち破るために非暴力・直接行動が繰り広げられた。
NAACPはすでに1930年代から人種隔離の壁を崩す訴訟戦術を始めていたが,その成果であるブラウン事件判決は公民権運動に大きな弾みを与えた。55年には黒人によるアラバマ州モンゴメリー市バス・ボイコットが起こり,車内における差別が廃止されるまで1年間にわたって続いた。26歳のM.L.キング牧師が指導した非暴力・直接の抗議行動は,その後の運動の原型となった。60年2月,数人の黒人大学生がノース・カロライナ州グリーンズボロの白人用ランチ・カウンターに座り込んだ。このシット・インsit-in運動は一挙に広がり,黒人の利用を拒む食堂,売店,劇場,公共設備など,いたるところで座込みが行われた。また南部各州のバス待合所の隔離をやめさせるため,〈フリーダム・ライダーfreedom rider〉がバスを連ねて主要な都市を巡った。長年にわたって投票権の行使を妨げられてきた黒人の有権者登録をすすめる運動も繰り広げられた。63年には20万人が参加してワシントン大行進が行われ,キング牧師の〈私には夢がある〉演説があり,公民権運動は最高潮に達した。連邦議会は64年に南北戦争以来もっとも強力な公民権法を制定した。運動の一つの大きな成果である。60年代後半から,黒人の人種的特性,文化的伝統を強調し,白人文化・社会への同化・融和を拒否する黒人分離主義が台頭した。また,非暴力行動に対して批判的な急進派が生まれ,それまでの公民権運動の目的があらためて問い直されるようになった。
→黒人問題
執筆者:藤倉 皓一郎
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(井上健 東京大学大学院総合文化研究科教授 / 2007年)
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アメリカで1950年代から黒人と一部の白人リベラル派が,市民として憲法によって保障された権利である公民権,換言すれば黒人の法的平等と平等の政治参加の権利を求めた運動,人種差別撤廃運動。全国有色人種向上協会(NAACP)が54年に公立学校での白人と黒人の別学違憲判決(ブラウン事件判決)を勝ち取ったあと,キングらによるモンゴメリー・バス・ボイコット闘争で採用した非暴力直接行動が他の運動でも威力を発揮し,南部で支配的な制度的人種分離に対抗,63年のワシントン大行進で頂点に達し,64年公民権法,65年投票権法の成立につながった。黒人教会が運動の拠点になったが,思想的に必ずしも一枚岩ではなかった。今日ではカリスマ的指導者はいないが,活動は続けられている。
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…さらにヒューストン,アトランタ,ニューオーリンズなどの都市には,税負担の重い東部・北部の大都市を逃れた企業が近年続々と移動し,経済活動の新たな中心地となるとともに,急激な人口増と建築ブームをもたらした。一方,かつて南部社会を特色づけていた人種差別は,1950年代以後連邦政府(とくに最高裁判所)の積極的介入や公民権運動により,徐々に廃止の方向に進んだ。今日では法律・制度上の差別は撤廃されており,黒人の政治参加も広範に実現している。…
…1954年に最高裁が公立学校での人種別教育を違憲としたブラウン事件判決を下し,55年末から深南部の中心アラバマの州都モンゴメリーでキング牧師らがバス・ボイコット闘争を開始したのを契機に,後に黒人革命Black Revolutionと呼ばれるようになる大変化が始まる。初めこの黒人革命は,公民権運動という形をとった。北部と違って南部では差別が合法化されていたので,まずこれを撤廃させるため,強力な公民権法の成立をめざしたからである。…
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