黒人解放運動史(読み)こくじんかいほううんどうし

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

黒人解放運動史
こくじんかいほううんどうし

一般には黒人の奴隷・差別制度からの解放をめざす運動史をいうが、本項ではとくにアメリカ合衆国における黒人、すなわち今日ではアフリカ系アメリカ人とよばれるようになった人々のそれを扱う。[本田創造]

新大陸の奴隷貿易

コロンブスが新大陸に到達してわずか四半世紀後の1517年、スペイン人宣教師ラス・カサスは、自国から新世界への移民を奨励するため、移住者1人につき12人のアフリカ黒人を植民地に連行できるようスペイン王室に要請し、許可された。彼はのちに自分のこの行為を悔いたが、このときから、すでにヨーロッパで行われていた黒人奴隷貿易が、アフリカ大陸と新大陸の間に正式に始まった。スペインに続いてオランダ、フランス、イギリスなど、さらに植民後まもないイギリス領植民地のニュー・イングランドまでもが、こぞってこのもうけの多い人間売買に参加し、新世界における奴隷貿易は、その後数世紀にわたって隆盛を極めることになる。
 1619年8月下旬、1隻のオランダ船によってジェームズタウンに陸揚げされた20人のアフリカ黒人は、こうして開始された人間売買の一こまにすぎなかった。それ以前にも、現在のアメリカ合衆国の国土に、何人かの探検家に連れられてきた黒人たちはいたが、このときの20人が、その後の合衆国におけるアフリカ系アメリカ人の歴史の起点となった。それは、ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)たちがメイフラワー号でプリマスに到着する1年数か月前、イギリス最初の恒久的な北アメリカ植民地がジェームズタウンに建設されて12年後のことで、アメリカ合衆国が独立国家としての内容や形式を整える、はるか以前のことであった。
 爾来(じらい)、彼らは漸次その数を増し、植民地時代末期から独立革命期にかけて約50万人、建国直後の1790年に行われた第1回国勢調査では75万7000人、19世紀中葉の南北戦争期には450万人、世紀転換期には880万人、1995年には合衆国総人口の12.6%を占める3300万人、そして99年には12.7%で3400万人をはるかに超え、この国で最大のマイノリティ(少数人種・民族集団)を構成するに至っている。[本田創造]

黒人解放運動の意義

このように、アフリカ系アメリカ人は、そもそもの初めからアメリカ合衆国の歴史的発展と不可分に結び付いていたが、今日に至るまで3世紀半以上に及ぶ彼らの歴史は、白人優越=黒人劣等の社会のなかで、つねに抑圧され差別されたマイノリティとしての歴史であった。しかも、ひと口にマイノリティといっても、アフリカ系アメリカ人の歴史が合衆国の他のマイノリティのそれと根本的に異なっていた点は、その全歴史過程の3分の2を、「なかばものいう道具」である家畜同様、「ものいう道具」である奴隷として、鞭(むち)と鎖の支配のもとで過ごさなければならなかったことである。だが、彼らは、そのような自己の境遇に唯々諾々(いいだくだく)と甘んじてきたのではけっしてない。南北戦争期までは黒人奴隷制度のくびきのもとで、それ以後は黒人差別制度の重圧のもとで、ひたすら人間としての尊厳とアメリカ人としての自己確認とを求めて、一貫して闘い続けてきた。同時に、そうすることによって、彼らアフリカ系アメリカ人は、この国の歴史と社会の進歩に大きく貢献し、かつてのアングロ・サクソン人がアメリカ人となったと同様に、かつてのアフリカ人からアメリカ人になった。それにもかかわらず、現実の事態が如実に示すように、黒人は、今日においても白人と対等なアメリカ人であることを頑強に拒否されている。そういう意味で、アフリカ系アメリカ人の歴史はそれ自体がいまなお続いているアメリカ黒人解放運動史である。[本田創造]

闘う黒人

その代表的な事例は、とりわけアメリカ史の激動の時代に、より劇的に現れた。自由と平等を旗印に戦われた独立革命の先駆けとして、1770年に起こった「ボストンの虐殺」で、イギリス軍の銃弾を浴びて最初に倒れたのは、クリスパス・アタックスというアフリカ系アメリカ人だったし、また革命戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、北部の自由黒人(奴隷身分でない黒人)たちは、いち早く、この戦争が植民地の白人のみならずアフリカ系の人々にも自由をもたらすべき正義の戦争であることを自覚し、自然権を根拠に、奴隷制度の廃棄と武器をとって戦う権利を強く要求した。事実、自由黒人だけでなく、奴隷主のもとから逃亡した南部の奴隷を含めて、数多くのアフリカ系アメリカ人が自由のための戦列に馳(は)せ参じ、「大きな戦闘で黒人の参加しない戦闘は一つもなかった」といわれるほどの活躍をした。独立革命の軍事的勝利の陰に、このようなアフリカ系アメリカ人の功績があったことを見逃すことはできない。
 19世紀に入って「綿花王国」を中心に奴隷制度がいっそう強化されると、この非人間的な制度を廃止するための運動が北部の人道主義者や民主主義者たちによって広範に展開されたが、アフリカ系アメリカ人たちも率先してその陣列に参加した。1831年、白人の奴隷制廃止論者ウィリアム・ロイド・ギャリソンが奴隷の即時、無条件、全面解放を唱道して『リベレーター(解放者)』という新聞を発刊した8か月後、ナット・ターナーは、軍隊まで出動して多数の奴隷が殺され、最後には自分も処刑されるという大奴隷暴動を起こして奴隷制度に反抗したし、「黒人のモーゼ」と慕われたハリエット・タブマンは、「アンダーグラウンド・レイルロード(地下鉄道)の女性司令官」として、ひとりで300人もの奴隷を解放した。また、フレデリック・ダグラスは、政治的、社会的な活動を通して、奴隷制度の廃止とアフリカ系アメリカ人の地位向上のためリンカーン大統領をしのぐほどの偉大な働きをした。そのダグラスは、黒人集会運動などに示されたアフリカ系民衆の感情を代弁して、こう断言した。「われわれは、万人に与えられた天賦、不可譲の生得の権利をもって、ここに生まれたアメリカ人である。黒人は、ピルグリム・ファーザーズたちがプリマスにやってくる以前から、ずっとここに生きてきたし、いまも現にここに生きている。将来も、また生き続けていく覚悟である。そして、われわれは、そうする権利をもっているのだ。なぜなら、この国は、白人だけの力によってではなく、われわれの祖先やわれわれ自身が、体に汗し血を流して築きあげてきたものだからである」と。[本田創造]

奴隷解放宣言

南北戦争さなかの1862年9月22日に発せられた奴隷解放予備宣言を受けて、それから100日後の63年1月1日に最後通告として公布された奴隷解放宣言は、400万人の奴隷を鉄鎖のくびきから自由にした黒人解放の聖典と一般にみなされがちである。だが、この宣言による奴隷解放は、合衆国に対して反乱状態にある州あるいは州の一部が反乱状態にあるとみなされる地域の奴隷だけに適用され、反乱諸州にはくみせず連邦内にとどまった境界奴隷州(デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ)や、連邦軍占領下の地域の奴隷は対象から外されていた。事実、リンカーン大統領にとって、奴隷解放はなによりも国家の分裂を救い、連邦の統一を護持するため、戦争遂行上の「適当かつ必要な軍事的措置」でしかなかった。そして、南部人はもとより北部人のほとんども、この戦争はあくまでも「白人の戦争」であると主張していた。けれども、アフリカ系アメリカ人たちはそうは考えなかった。あの独立革命で成し遂げられなかった課題を、こんどこそ実現するのがこの戦争の使命だと考えた。だからこそ、彼らはそこに「自由か死か」を賭(か)けたのだ。戦争を通じて約50万人の奴隷が逃亡したばかりでなく、20万人を超す黒人兵士が直接軍務に服して南軍と戦った。ほかに労務者として北軍を助けた者の数は25万人にも上った。南北戦争終結後まもなく奴隷制度の廃止を正式に定めた憲法修正第13条は、アフリカ系の人々のこのような闘いと、それを支えた奴隷制廃止論者や共和党急進派を中心にした全民主勢力の幅広い統一戦線によって、ようやくかちとられた。[本田創造]

勝利と敗北

いまや、憲法上に記された解放を、もっと確かな現実のものにする必要があった。アメリカ史上、リコンストラクション(再建期)とよばれる南北戦争後の十数年間は、こうした課題をめぐるアフリカ系アメリカ人の闘いの勝利と敗北の時期である。このとき、元奴隷だった南部のアフリカ系アメリカ人は、この国で初めて選挙権を行使することができた。南部の州議会に選ばれて、教育その他の重要問題について自分のことばで発言することができた。また、州政府の各種機関に進出したばかりでなく、三つの州では黒人の副知事が誕生した。国の政治にも直接関与し、14人の下院議員と2人の上院議員が首都ワシントンの国会に席を占めた。
 しかし、こうしたことは、そう長くは続かなかった。奴隷制反対政党として結成されたかつての共和党は、戦争の過程で大きく変質し、すでに紛れもなく資本家の党として南部の民主党と手を結ぼうとしていた。クー・クラックス・クラン(KKK)をはじめとするテロや暴力が南部を支配し始めていた。1872年に国会を通過した「大赦法」は、旧南部の支配階級の政治的諸権利を全面的に復活させた。最後に、1876年の大統領選挙に絡んで行われた「ヘイズ‐ティルデン妥協」が、南部の民主的再建の敗北を告げたのである。それには、南部再建の基本課題であった土地問題がほとんど解決されなかったことに、なによりの原因があった。反動が功を奏したとき、アフリカ系アメリカ人たちは、かつての黒人奴隷制度にかわって、再版奴隷制ともいうべきシェア・クロッピング制度(刈分け小作制度)のくびきのもとに縛られていることを知った。彼らアフリカ系アメリカ人が渇望していた「40エーカーの土地と1頭のラバ!」は、もはや夢でしかなかった。[本田創造]

差別と隔離

19世紀末、ポピュリスト運動(人民党運動)とよばれる大規模な民衆運動の高まりのなかで、民主的再建の過程でみられたアフリカ系アメリカ人と貧しい白人との連帯がふたたびよみがえってきたとき、資本家とプランター=地主の支配階級は、単に人民党運動を押しつぶすという当面の目的のためだけでなく、広く労働者階級に対する階級的搾取を強化するためにも、アフリカ系の人々を白人から切り離し、彼らを白人よりも一段と低い隷属状態に押しとどめておく必要を感じ取った。同時に、それがアフリカ系アメリカ人からいっそう多くの超過利潤を搾取できる確かな道であることも学び取った。1890年から20世紀初頭にかけて、ミシシッピ州を皮切りに南部諸州を席巻(せっけん)したアフリカ系の人々からの選挙権剥奪(はくだつ)は、こうして起こった。
 選挙権の剥奪は、いっさいの人種差別の集中的な現れにすぎない。交通機関、学校などの公共施設、その他レストランや墓地に至るまで、さまざまなところで差別と隔離が州法や地方自治体の条例などによって行われ、その実施にはリンチや暴力が公然と用いられた。そうしたことに大きな役割を果たしたのが、「隔離はしても平等」separate but equalなら差別ではないとした1896年の最高裁判所の判決であった(このような人種隔離制度に基づく黒人差別の法体系はジム・クロウ制度とよばれる)。当時、黒人差別制度の根幹は南部にあったが、やがてアフリカ系アメリカ人が南部の農村を離脱して、大挙、北部の諸都市に移住するようになると、法律的には差別がない地域においても、とりわけ雇用や住居や教育などの分野で、黒人差別は事実上どこでも広く行き渡ることになった。[本田創造]

今日の黒人解放運動

このような差別制度に対する闘いが、いまなお進行中の、今日の黒人解放運動である。1905年にW・E・B・デュボイスの呼びかけで開始されたナイアガラ運動の後を受けて、全国黒人向上協会(NAACP)は法廷闘争を中心に大きな役割を果たしてきたが、その後の半世紀近くの間、期待されたほどの成果は実現しなかった。その間、ガーベイ運動に示された黒人民族意識の台頭、ハーレム・ルネサンスに代表されるアフリカ系アメリカ人文化の開花、二つの世界大戦におけるアフリカ系アメリカ人の活躍、大都市へのアフリカ系アメリカ人の大規模な集住化、国際的な人種差別反対運動などを背景として、本格的な差別撤廃闘争が展開されたのは、第二次世界大戦後になってからのことである。1954年に最高裁判所が前述の「隔離はしても平等」の原則を破棄し、公立学校における隔離教育を違憲とした判決はキング牧師のバス・ボイコット運動を皮切りに、大衆のデモや座り込みなどの直接行動による公民権運動の開幕を告げ、そのなかから各種の黒人解放組織が結成された。こうして、公民権運動は数々の目覚ましい成果を収め、それは1960年代における他の有色人のみならず、白人の民衆運動の高揚に大きな影響を与えた。
 しかし、それと同時に、公民権運動は基本的には中産階級を中心にし、かれらの指導のもとにアフリカ系アメリカ人に対する政治的・社会的差別の撤廃と諸権利の獲得を主眼にして闘われたもので、経済的差別の廃止にはほとんど手がつけられなかった。このため、その後、アフリカ系アメリカ人の地位は全般的に向上したにもかかわらず、黒人と白人との経済的格差は依然として解決されなかっただけでなく、アフリカ系アメリカ人内部にも階層分化が進行し、これまで以上に膨大な数の極貧層(しばしば「アンダークラス」とよばれる)を創出することとなった。現在、アメリカの黒人解放運動は、こうした新たな課題と苦難に直面しながら、より大きな経済的正義に向かって将来への展望を切り開くべく、その解決に邁進(まいしん)している。[本田創造]
『本田創造著『アメリカ黒人の歴史』新版(岩波新書) ▽本田創造著『南北戦争・再建の時代』(1974・創元社) ▽本田創造著『私は黒人奴隷だった』(岩波ジュニア新書) ▽猿谷要著『歴史物語――アフリカ系アメリカ人』(2000・朝日選書)』

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