日本歴史地名大系 「黒坂陣屋跡」の解説 黒坂陣屋跡くろさかじんやあと 鳥取県:日野郡日野町黒坂村黒坂陣屋跡[現在地名]日野町黒坂南と東を日野川に限られた現黒坂市街西方の高見(たかみ)山の山麓にあった陣屋。近世初期の関一政の居城鏡山(かがみやま)城の城屋を流用し、鳥取藩家臣福田氏の陣屋となった。〔鏡山城〕北の天郷(てんごう)川を含め三方を川に囲まれた天然の要害地にあった山城。城名は高見山の転訛と思われる。黒坂城ともいい、城山が亀に似ていたことから亀山城ともいう。戦国期の日野氏の居城との説もある(伯耆志)。城跡は現在の県立日野産業高等学校敷地を含む一帯とされる。慶長一五年(一六一〇)伊勢亀山(かめやま)(現三重県亀山市)の領主関一政が黒坂に転封となり、従来の三万石に対し二万石を加増された(恩栄録)。知行地は日野・会見(あいみ)・汗入(あせり)三郡内とされる(「伯州黒坂城物語」安江家文書)。一政は初め生山(しようやま)城(現日南町)に入り、同一七年に築城を開始、同一九年入城したという(伯耆志)。城普請は地鎮として鉄札を東西南北に打ち、南の川辺に地神を祀って開始された。城は天守・二の丸および四方に櫓を建て、高石垣を築いて塀をめぐらし、大川(日野川か)に跳橋を架けた(「伯州黒坂開元記」山上家文書)。享保一一年(一七二六)の「因伯地理志」に城跡の状況が記され、大手門は東向き、本丸の高さは四七間、広さは東南(南北の誤記か)一五間・東西八間、ほかに南北三三間・東西二二間の舎跡があった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by