山田 寒山(読み)ヤマダ カンザン

20世紀日本人名事典 「山田 寒山」の解説

山田 寒山
ヤマダ カンザン

明治・大正期の篆刻家,陶芸



生年
安政3年(1856年)

没年
大正7(1918)年12月26日

出生地
尾張国(愛知県)

本名
山田 潤子

経歴
出家して禅僧となったが、のちに還俗する。小曽根乾堂、呉昌碩に師事して篆刻家として知られ、伊藤博文尾崎紅葉らと交流があった。明治の末から東京・今戸の水野窯で作陶を行う。篆刻、作陶の他、詩、書画表装から製菓にも秀でた。中国蘇州寒山寺荒廃に心を痛めてその復興を志し、「夜半の鐘」を新鋳して寄贈。自らの号も同寺に拠る。著書に「羅漢印譜」。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山田 寒山」の解説

山田寒山 やまだ-かんざん

1856-1918 明治-大正時代の篆刻(てんこく)家。
安政3年生まれ。小曾根乾堂(こそね-けんどう)に師事し,清(しん)(中国)にわたり呉昌碩(ご-しょうせき)にまなぶ。陶芸,書画にもすぐれた。伊藤博文と親交があった。また荒廃した中国の寒山寺の復興につとめた。大正7年12月26日死去。63歳。尾張(おわり)(愛知県)出身本名は潤子。作品集に「羅漢印譜」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「山田 寒山」の解説

山田寒山

没年:大正7.12.26(1918)
生年:安政3(1856)
明治大正の篆刻家。名は潤子,号は寒山。出家して永平寺派の禅僧となるが,のちに還俗。篆刻のほか,詩書画,楽焼,表装,製菓までよくした。中国の蘇州にある寒山寺に遊び,その荒廃を嘆き,「夜半の鐘」を新鋳して寄贈した。著に『羅漢印譜』がある。

(北川博邦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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