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小説家。本名徳太郎。「紅葉」は、生地、東京・芝紅葉山(もみじやま)にちなむ。ほかに縁山(えんざん)、半可通人(はんかつうじん)、十千万堂(とちまんどう)などの別号がある。江戸・芝中門前町に、慶応(けいおう)3年12月16日生まれる(太陽暦では1868年1月10日にあたる)。父惣蔵(そうぞう)は屋号を「伊勢屋(いせや)」という商人だったが、谷斎(こくさい)と号し角彫(つのぼ)りの名人でもあった。が、名人気質(かたぎ)で生活は苦しく、幇間(ほうかん)となり生計をたてていたので、世間ではむしろ「赤羽織の谷斎」として知られていた。紅葉はこの父を恥じ、友人にもひた隠しにしていた。幼時に母と死別し、以後は母方の祖父母荒木氏に引き取られ、養育された。東京府第二中学校(現都立日比谷(ひびや)高校)を経て、大学予備門(現東京大学教養学部)に入学、ここで石橋思案(しあん)、山田美妙(びみょう)らと硯友社(けんゆうしゃ)を結成、機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を創刊した。1885年(明治18)のことである。同人も増加して雑誌も発展し、硯友社はやがて文壇に勢力を示すようになったが、紅葉は親分肌の性格で友情に厚く、つねにその中心であった。
帝国大学に進学、法科から和文学科に転科したが、1889年12月読売新聞社に入社し、作家としてたったので、翌1890年には退学した。これ以前の1889年4月、「新著百種」第1号として『二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)』を刊行。情趣深い「悲哀小説」として好評を博し、人気作家としてデビューしたことによる。この後『読売新聞』に次々と艶麗(えんれい)な女性風俗を写実的に描いた長短編を連載。1891年3月、牛込(うしごめ)区横寺(よこでら)町に新居を構え、樺島菊子(かばしまきくこ)(喜久子)と結婚、やがて泉鏡花(きょうか)、小栗風葉(おぐりふうよう)、徳田秋声(とくだしゅうせい)らが続々入門し、その声望は高く「横寺町の大家」として文壇に仰がれた。『伽羅枕(きゃらまくら)』(1890)、『二人(ににん)女房』(1891~92)、『三人妻』(1892)など、作風の特色を遺憾なく発揮している。
その後、翻案や弟子との合作を試みた時期を経て、盲人の執念を描いた『心の闇(やみ)』(1893)などから、1896年、性格、心理の描写に優れた言文一致体の『多情多恨』を出し、さらに1897年以降、一代の大作『金色夜叉(こんじきやしゃ)』(1897~1902)の執筆に従事、明治年間で最高の読者の人気を集めたが、中途で病没した。明治36年10月30日。「死なば秋露のひぬ間ぞおもしろき」の句がある。俳人としても一家をなしたが、本格小説家としての力量は「紅葉山脈」として大正・昭和の作家たちにも仰がれている。
[岡 保生]
『『紅葉全集』全6巻(1979・日本図書センター)』▽『『明治文学全集18 尾崎紅葉集』(1965・筑摩書房)』▽『岡保生著『尾崎紅葉の生涯と文学』(1968・明治書院)』
明治期の作家,俳人。江戸生れ。本名徳太郎。別号は十千万(とちまん)堂のほか初期に多い。家は代々の商家で,父は谷斎(こくさい)と号した牙彫(げぼり)の名人であり,素人幇間(ほうかん)でもある奇人であった。紅葉は幼時に母を亡くして後は,母方の実家で養育された。少年時から文筆を好み,大学予備門に入って,1885年,学友石橋思案や山田美妙らと文学結社硯友社(けんゆうしや)を興し,同人誌《我楽多(がらくた)文庫》を発行した。初めは戯作的な文章を書いたが,89年《新著百種》第1号の《二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)》が出世作となり,同年末に坪内逍遥,幸田露伴とともに《読売新聞》に迎えられ,同社の新聞小説を書いて職業作家の地位を確立した。90年に東大中退。《むき玉子》(1891),《三人妻》(1892)などの当代風俗小説によって人気を呼び,“読売の紅葉か,紅葉の読売か”とまで言われて文名を上げ,明治中期の最有力作家となる。古典や西洋文学の摂取,〈である〉調の言文一致体などにみられる文体の模索等により次々と試作して時代への適合に精進し,晩年には《多情多恨》(1896),《金色夜叉(こんじきやしや)》(1897-1902)の力作長編で満天下をわかせたが,健康を害して没した。次代の作家から,写実の浅薄さや通俗性が批判されたが,文学を芸術性と大衆性の両面において調和させ発展を期した意義は評価されねばならない。また作家の経済生活の確立に腐心し,小栗風葉や泉鏡花らの後進も育てた。秋声会の俳人で句集もある。〈泣いて行くウエルテルに会ふ朧(おぼろ)かな〉。
執筆者:土佐 亨
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(佐伯順子)
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1867.12.16~1903.10.30
明治期の小説家。本名徳太郎,別号は十千万堂など。江戸生れ。父惣蔵は角彫りの名手で,赤羽織の谷斎とよばれる幇間(ほうかん)でもあった。1883年(明治16)大学予備門に入学。山田美妙・石橋思案・丸岡九華らと知り合い,85年硯友社を結成,「我楽多(がらくた)文庫」を創刊。89年「二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)」を「新著百種」第1号として発刊,出世作となる。帝国大学文科に在籍のまま読売新聞社員となり,西鶴を模した雅俗折衷文体の「伽羅枕(きゃらまくら)」「三人妻」,知識人の内面を描いた「多情多恨」を発表。97年から死の直前まで書き続けられた「金色夜叉」は,金銭と愛情の相克を描いて広く国民に迎えられた。門下生に泉鏡花・徳田秋声・小栗風葉・柳川春葉らがいる。
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…明治中期の文学結社。1885年(明治18)2月,東京大学予備門在学中の尾崎紅葉,山田美妙(びみよう),石橋思案(1867‐1927)らが高等商業生徒の丸岡九華(きゆうか)らをかたらい創立した。同年5月から機関誌《我楽多(がらくた)文庫》を創刊,小説,漢詩,戯文,狂歌,川柳,都々逸(どどいつ)など,さまざまな作品を載せた。…
…尾崎紅葉の畢生(ひつせい)の長編小説。1897年(明治30)から1902年にかけて《読売新聞》に断続連載。…
…尾崎紅葉の長編小説。1896年(明治29)に《読売新聞》に連載,翌年刊行。…
…というものの,写本のままこの小説集がヨーロッパ世界にひろがって愛読された結果,イギリスではチョーサーの《カンタベリー物語》,フランスではナバール王妃マルグリットの《エプタメロン》などが生まれ,近代文学とつながっていった。 日本では明治時代に尾崎紅葉がこの著の一編を翻案して《鷹料理》を著したほか,二,三の翻案が見られたが,肝心の艶笑談は紹介されたこともなかった。エロ本の代表と見られていたからである。…
…だが文明開化を経て西洋崇拝の風潮が強まるとともに,端唄は急速に衰退した。かつて文人墨客の手がけた《夕ぐれ》《春雨》《紀伊の国》《京の四季》などが歌われなくなるのを嘆いて,尾崎紅葉や幸田露伴が〈端唄会〉(1901)を催したが,大勢の挽回はできず,1920年代には端唄という名称も音楽も,世間はほとんど忘れ去った。しかし,芸の伝承は絶えることなく,藤本琇丈やその門下の根岸登喜子ら幾人かの有能な演奏家によって継承され,第2次世界大戦後,ふたたび愛好者層を増やしつつある。…
…政治小説の類に翻案が顕著である。尾崎紅葉もまた多数の翻案作品を書いた作家の一人で,《夏小袖》(1892)でモリエール《守銭奴》を翻案したが,原作の喜劇特有の風刺も批評精神もとりあげられず,会話の滑稽味を強調する江戸風茶番劇に仕立てられ,紅葉そのひとの創作に近いものになっている。翻案は原作の主要な筋の借用や一部の模倣をしながらも原作を髣髴(ほうふつ)とさせるところを残す作品であるが,原作とはまったく異相を呈し別の生命力をもった作品と,原作そのままのような剽窃(ひようせつ)作品との中間に位置する。…
…当初は平易通俗を旨としたふりがなつきの雑報記事を主体とする〈小新聞(こしんぶん)〉だったが,高田早苗の主筆時代(1887‐91)には活発な政治論評を行うようになり,一時改進党寄りと目された。明治後半期には坪内逍遥,幸田露伴,尾崎紅葉らが在社し,とくに紅葉は《多情多恨》《金色夜叉》などの名作を連載し,文学新聞としての全盛時代を築いた。日露戦争から明治末期にかけては,島村抱月,田山花袋,島崎藤村,正宗白鳥ら自然主義作家が作品を発表し,この文芸重視の傾向は大正前半期まで続いた。…
※「尾崎紅葉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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