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尾崎紅葉 おざき こうよう

美術人名辞典の解説

尾崎紅葉

小説家。東京生。名は徳太郎、別号に緑山、半可通人等。東大中退。硯友社を結成。『二人比丘尼色懴悔』で文壇的地位を確立。読売新聞を中心に活躍し、井原西鶴の影響を受けた雅俗折衷文体の小説で知られる。幸田露伴と共に紅露時代現出。また俳句も手がける。代表作伽羅枕』『多情多恨』『金色夜叉』等。明治36年(1903)歿、37才。

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デジタル大辞泉の解説

おざき‐こうよう〔をざきコウエフ〕【尾崎紅葉】

[1868~1903]小説家。東京の生まれ。本名、徳太郎。別号、十千万堂(とちまんどう)など。山田美妙らと硯友社を興し、「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」を発刊。泉鏡花徳田秋声など多くの門人を世に送り出した。作「三人妻」「多情多恨」「金色夜叉」など。

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百科事典マイペディアの解説

尾崎紅葉【おざきこうよう】

明治期の小説家。本名徳太郎。幇間(ほうかん)で牙彫(げぼり)の名人惣蔵の子として江戸に生まれる。東大国文科中退。1885年山田美妙らと硯友社を結成し《我楽多文庫》を創刊。
→関連項目梶田半古川上眉山北田薄氷小杉天外嵯峨の屋お室しからみ草紙新体詩田山花袋三島霜川都の花柳川春葉山田美妙読売新聞

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

尾崎紅葉 おざき-こうよう

1868*-1903 明治時代の小説家。
慶応3年12月16日生まれ。明治18年山田美妙(びみょう)らと硯友(けんゆう)社を創立し,「我楽多(がらくた)文庫」を創刊。22年「二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)」が出世作となる。のち読売新聞社にはいり,言文一致体の「多情多恨」,「金色夜叉」(未完)などを連載し人気作家となった。門弟に泉鏡花,小栗風葉らがいる。明治36年10月30日死去。37歳。東京出身。帝国大学中退。本名は徳太郎。別号に縁山,半可通人など。
【格言など】幾許(いくら)此方(こつち)で力むだつて,天気と疑いばかりは先方(むこう)から霽(は)れるのだ(「多情多恨」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

尾崎紅葉

没年:明治36.10.30(1903)
生年:慶応3.12.16(1868.1.10)
明治時代の小説家。生年月日は,一説に12月27日。本名徳太郎。号に縁山,半可通人など。俳号は十千万堂。代々商家であったが,廃業して角彫師谷斎として知られ,幇間もつとめていた惣蔵と庸の長男。江戸の芝中門前町生まれ。寺子屋梅泉堂,その移行した桜川小学校から府立二中(日比谷高校)に進むが,中退して三田英学校で英語を学ぶ。さらに東大予備門に進むが,漢学塾綏猷堂や崇文館で漢学,漢詩文も学んだ。明治18(1885)年2月,山田美妙らと近代最初の小説結社硯友社を結成。同年5月機関誌『我楽多文庫』(~22年10月)を創刊。「二人比丘尼色懺悔」(1889)で文壇にデビュー。翌年帝大中退。西鶴の影響を受け雅俗折喪体の文体を用いた「伽羅枕」(1890),「三人妻」(1892)などが前期の代表作。また,近代ヨーロッパ文学に学んでゾラの翻案「むき玉子」(1891)などを書いて,心理的写実主義の体得や言文一致体への移行につとめ,写実主義の最高作であり言文一致体の小説として意義の深い「多情多恨」(1896)や,「金色夜叉」(1897~1902)など後期の代表作に至る。明治文壇の大御所として泉鏡花ら多くの門下生を育てたが,胃癌で没した。当時の人気作家としてのみならず,文学近代化の過渡期にあって,外国文学の受容や,古典文学の残映,文体の模索など新旧の様々な要素をはらみ,明治文学史上大きな存在感を持つ。<参考文献>福田清人『尾崎紅葉』,岡保生『尾崎紅葉の生涯と文学』

(佐伯順子)

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世界大百科事典 第2版の解説

おざきこうよう【尾崎紅葉】

1867‐1903(慶応3‐明治36)
明治期の作家,俳人。江戸生れ。本名徳太郎。別号は十千万(とちまん)堂のほか初期に多い。家は代々の商家で,父は谷斎(こくさい)と号した牙彫(げぼり)の名人であり,素人幇間(ほうかん)でもある奇人であった。紅葉は幼時に母を亡くして後は,母方の実家で養育された。少年時から文筆を好み,大学予備門に入って,1885年,学友石橋思案や山田美妙らと文学結社硯友社(けんゆうしや)を興し,同人誌《我楽多(がらくた)文庫》を発行した。

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大辞林 第三版の解説

おざきこうよう【尾崎紅葉】

1867~1903) 小説家・俳人。東京生まれ。本名、徳太郎。東大中退。硯友社を結成して、「我楽多文庫」を創刊。口語文体を創始し、写実主義の可能性を深め、心理的・社会的な主題を追究。代表作「三人妻」「多情多恨」「金色夜叉」

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

尾崎紅葉
おざきこうよう

[生]明治1(1868).12.16. 東京
[没]1903.10.30. 東京
小説家。本名,徳太郎。別号は縁山,十千万堂など。父谷斎は根付彫の名人だったが,他方では奇行に富む幇間 (ほうかん) として知られた。東京府立第二中学校,大学予備門を経て,東京大学法科 (のち和文科) に学んだが,1890年に中退。 85年予備門在学中に丸岡九華,山田美妙らと「硯友社」を結成し,機関誌『我楽多 (がらくた) 文庫』を創刊,相前後して坪内逍遙の『小説神髄』の影響を受けた。『二人比丘尼色懺悔 (ににんびくにいろざんげ) 』 (1889) の成功で文名を得,迎えられて読売新聞社に入社,井原西鶴に傾倒し,その手法と文体を模した風俗写実小説に新生面を開いた。花柳界に生きた女の半生と運命を描く『伽羅 (きゃら) 枕』 (90) ,新聞記事にヒントを得て豪商と彼をめぐる3人の妾の愛欲図絵を描いた『三人妻』 (92) などがこの期の代表作で多くの読者を集め,全盛時代を迎えた硯友社の頭領として文壇に君臨した。しかし,93年頃から作風の転換を試み,恋愛心理のあやを追う内面描写に力を注ぎ,また,口語文体を完成した。この期の作品には,盲人の偏愛を描いた『心の闇』 (93) ,愛妻を亡くした男の悲嘆と未練の日々を写した『多情多恨』 (96) などがある。次いで 97年には長編『金色夜叉 (こんじきやしゃ) 』の稿を起した。金権万能の資本主義社会批判の意図を寓した大作で,写実的手法の徹底もみられたが,死によって未完に終った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

尾崎紅葉
おざきこうよう
(1867―1903)

小説家。本名徳太郎。「紅葉」は、生地、東京・芝紅葉山(もみじやま)にちなむ。ほかに縁山(えんざん)、半可通人(はんかつうじん)、十千万堂(とちまんどう)などの別号がある。江戸・芝中門前町に、慶応(けいおう)3年12月16日生まれる(太陽暦では1868年1月10日にあたる)。父惣蔵(そうぞう)は屋号を「伊勢屋(いせや)」という商人だったが、谷斎(こくさい)と号し角彫(つのぼ)りの名人でもあった。が、名人気質(かたぎ)で生活は苦しく、幇間(ほうかん)となり生計をたてていたので、世間ではむしろ「赤羽織の谷斎」として知られていた。紅葉はこの父を恥じ、友人にもひた隠しにしていた。幼時に母と死別し、以後は母方の祖父母荒木氏に引き取られ、養育された。東京府第二中学校(現都立日比谷(ひびや)高校)を経て、大学予備門(現東京大学教養学部)に入学、ここで石橋思案(しあん)、山田美妙(びみょう)らと硯友社(けんゆうしゃ)を結成、機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を創刊した。1885年(明治18)のことである。同人も増加して雑誌も発展し、硯友社はやがて文壇に勢力を示すようになったが、紅葉は親分肌の性格で友情に厚く、つねにその中心であった。
 帝国大学に進学、法科から和文学科に転科したが、1889年12月読売新聞社に入社し、作家としてたったので、翌1890年には退学した。これ以前の1889年4月、「新著百種」第1号として『二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)』を刊行。情趣深い「悲哀小説」として好評を博し、人気作家としてデビューしたことによる。この後『読売新聞』に次々と艶麗(えんれい)な女性風俗を写実的に描いた長短編を連載。1891年3月、牛込(うしごめ)区横寺(よこでら)町に新居を構え、樺島菊子(かばしまきくこ)(喜久子)と結婚、やがて泉鏡花(きょうか)、小栗風葉(おぐりふうよう)、徳田秋声(とくだしゅうせい)らが続々入門し、その声望は高く「横寺町の大家」として文壇に仰がれた。『伽羅枕(きゃらまくら)』(1890)、『二人(ににん)女房』(1891~92)、『三人妻』(1892)など、作風の特色を遺憾なく発揮している。
 その後、翻案や弟子との合作を試みた時期を経て、盲人の執念を描いた『心の闇(やみ)』(1893)などから、1896年、性格、心理の描写に優れた言文一致体の『多情多恨』を出し、さらに1897年以降、一代の大作『金色夜叉(こんじきやしゃ)』(1897~1902)の執筆に従事、明治年間で最高の読者の人気を集めたが、中途で病没した。明治36年10月30日。「死なば秋露のひぬ間ぞおもしろき」の句がある。俳人としても一家をなしたが、本格小説家としての力量は「紅葉山脈」として大正・昭和の作家たちにも仰がれている。[岡 保生]
『『紅葉全集』全6巻(1979・日本図書センター) ▽『明治文学全集18 尾崎紅葉集』(1965・筑摩書房) ▽岡保生著『尾崎紅葉の生涯と文学』(1968・明治書院)』

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世界大百科事典内の尾崎紅葉の言及

【硯友社】より

…明治中期の文学結社。1885年(明治18)2月,東京大学予備門在学中の尾崎紅葉,山田美妙(びみよう),石橋思案(1867‐1927)らが高等商業生徒の丸岡九華(きゆうか)らをかたらい創立した。同年5月から機関誌《我楽多(がらくた)文庫》を創刊,小説,漢詩,戯文,狂歌,川柳,都々逸(どどいつ)など,さまざまな作品を載せた。…

【金色夜叉】より

尾崎紅葉の畢生(ひつせい)の長編小説。1897年(明治30)から1902年にかけて《読売新聞》に断続連載。…

【多情多恨】より

尾崎紅葉の長編小説。1896年(明治29)に《読売新聞》に連載,翌年刊行。…

【デカメロン】より

…というものの,写本のままこの小説集がヨーロッパ世界にひろがって愛読された結果,イギリスではチョーサーの《カンタベリー物語》,フランスではナバール王妃マルグリットの《エプタメロン》などが生まれ,近代文学とつながっていった。 日本では明治時代に尾崎紅葉がこの著の一編を翻案して《鷹料理》を著したほか,二,三の翻案が見られたが,肝心の艶笑談は紹介されたこともなかった。エロ本の代表と見られていたからである。…

【端唄∥端歌】より

…だが文明開化を経て西洋崇拝の風潮が強まるとともに,端唄は急速に衰退した。かつて文人墨客の手がけた《夕ぐれ》《春雨》《紀伊の国》《京の四季》などが歌われなくなるのを嘆いて,尾崎紅葉や幸田露伴が〈端唄会〉(1901)を催したが,大勢の挽回はできず,1920年代には端唄という名称も音楽も,世間はほとんど忘れ去った。しかし,芸の伝承は絶えることなく,藤本琇丈やその門下の根岸登喜子ら幾人かの有能な演奏家によって継承され,第2次世界大戦後,ふたたび愛好者層を増やしつつある。…

【翻案】より

政治小説の類に翻案が顕著である。尾崎紅葉もまた多数の翻案作品を書いた作家の一人で,《夏小袖》(1892)でモリエール《守銭奴》を翻案したが,原作の喜劇特有の風刺も批評精神もとりあげられず,会話の滑稽味を強調する江戸風茶番劇に仕立てられ,紅葉そのひとの創作に近いものになっている。翻案は原作の主要な筋の借用や一部の模倣をしながらも原作を髣髴(ほうふつ)とさせるところを残す作品であるが,原作とはまったく異相を呈し別の生命力をもった作品と,原作そのままのような剽窃(ひようせつ)作品との中間に位置する。…

【読売新聞】より

…当初は平易通俗を旨としたふりがなつきの雑報記事を主体とする〈小新聞(こしんぶん)〉だったが,高田早苗の主筆時代(1887‐91)には活発な政治論評を行うようになり,一時改進党寄りと目された。明治後半期には坪内逍遥,幸田露伴,尾崎紅葉らが在社し,とくに紅葉は《多情多恨》《金色夜叉》などの名作を連載し,文学新聞としての全盛時代を築いた。日露戦争から明治末期にかけては,島村抱月,田山花袋,島崎藤村,正宗白鳥ら自然主義作家が作品を発表し,この文芸重視の傾向は大正前半期まで続いた。…

※「尾崎紅葉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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