権藤 震二(読み)ゴンドウ シンジ

20世紀日本人名事典 「権藤 震二」の解説

権藤 震二
ゴンドウ シンジ

明治・大正期のジャーナリスト,実業家 日本電報通信社常務



生年
明治4年12月3日(1872年)

没年
大正9(1920)年1月21日

出生地
三潴県御井郡山川村(福岡県久留米市)

別名
号=雷軒,高良山人

学歴〔年〕
専修学校(現・専修大学)〔明治27年〕卒

経歴
明治27年「東京日日新聞」に入社し、日清戦争従軍記者として活躍。のち台湾総督府官吏となったが、まもなく「東京日日新聞」に復帰。その後、「北国新聞主筆、「二六新報」に転じ、40年日本電報通信社(現・電通)の創立尽力、常務に就任した。大正3年シーメンス事件に連座し、退社著書に「従征日録」「雷軒唾屑」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「権藤 震二」の解説

権藤震二

没年:大正9.1.21(1920)
生年:明治4.12.3(1872.1.12)
明治時代のジャーナリスト,実業家。号は雷軒,高良山人。権藤直の次男として現在の福岡県久留米市に生まれる。兄は権藤成卿。明治27(1894)年専修学校(専修大学)を卒業し,『毎日新聞』に入社。日清戦争(1894~95)に従軍記者として派遣された。のち『北国新聞』の主筆などを経て,40年日本電報通信社(電通)が発足すると重役となった。電通創設者光永星郎の伝記『八火伝』によれば,権藤は物事にこだわらぬ無邪気な性格で,気骨もあり,詩文に通じ,電通の通信文の名声を高めたという。大正3(1914)年シーメンス事件に連座し,辞任に追い込まれた。<参考文献>黒竜会編『東亜先覚志士記伝』下(復刻,1966)

(小宮一夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「権藤 震二」の解説

権藤震二 ごんどう-しんじ

1872*-1920 明治-大正時代のジャーナリスト。
明治4年12月3日生まれ。権藤成卿(せいきょう)の弟。「東京日日新聞」記者として日清戦争に従軍。明治34年日本広告の創立にくわわり,その後身の日本電報通信社(現電通)取締役となる。大正3年シーメンス事件にかかわって退社。大正9年1月21日死去。50歳。福岡県出身。専修学校(現専修大)卒。号は雷軒,高良山人。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「権藤 震二」の解説

権藤 震二 (ごんどう しんじ)

生年月日:1872年12月3日
明治時代;大正時代の新聞人。日本電報通信社取締役
1920年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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