「格差社会」ということばに学問的に明確な定義はないが、現代の用法をみる限り、所得などの格差が個人の努力では埋めがたいほど大きい社会という意味を帯びている。さらにいえば、これまでは個人の努力で埋めることができると思われていた格差が、近年急速に個人の努力では埋めがたいものに固定化した(しつつある)といったニュアンスも込められているといえる。
格差には、所得格差以外にも、学歴、職業地位などの格差があり、もちろんそれらは相互に関係している。学歴が高ければ、高い職業地位につきやすく、それは高い所得に結び付きやすいからである。しかも現代は、高い学歴を得るためには、小学校時代から塾に通ったり、中高一貫の私立学校に入学したりしたほうが有利であるため、所得の高い家庭の子供ほど学歴が高くなる傾向がある。ではやはり所得格差だけが問題なのかというと、そうとばかりもいいきれないところが現代の格差社会の複雑さである。
日本社会が経済的に格差拡大の方向に向かいつつあることを最初に指摘したのは、すでに1985年(昭和60)に刊行された小沢雅子(1953― )の『新「階層消費」の時代』である。小沢は各種の経済統計の長期的分析から、所得格差や資産格差が消費の格差を生んでいることを指摘した。
しかし、この小沢の指摘は1980年代後半に訪れたバブル経済によってかき消された。本来バブル時代は、地価高騰によって土地をもてる者ともたざる者の格差が拡大した時代であったはずだが、この時代に格差社会が論じられることはなかった。円高によって国民全体の経済レベル、消費レベルが上昇したために、格差の拡大をあまり意識しなくてすんだからであろう。とくに、社会の中枢にいた団塊の世代とその子供世代においては、自分が「中の上」以上の階層であると考える者が3割以上に達していたことなどもあり(三浦展著『団塊格差』『下流社会 第2章』)、むしろバブル時代は戦後日本社会の中流化の完成期であると感じられたからであろう。
さて、しかし、このバブルがはじけると様相は一変する。ふたたび「中の上」から「中の中」へ、そして「中の中」から「中の下」の階層へと下降する人々が増え、所得格差が拡大していった。
所得の資産の観点から格差の拡大をいち早く指摘したのは橘木俊詔(たちばなきとしあき)(1943― )の『日本の経済格差』(1998)である。橘木は、所得分配の不平等度を示すジニ係数が、1980年の0.349から92年(平成4)は0.439に上昇していることを指摘し(ジニ係数は0.5のとき、社会の全成員の25%の人が社会の総所得の75%を得る状態である)、日本がアメリカなみに不平等になっており、日本の平等神話、一億総中流神話が虚妄であると述べた。
さらに2000年には佐藤俊樹(としき)(1963― )が『不平等社会日本』で職業の観点から格差の固定化を指摘した。簡略化していえば、現在40歳でホワイトカラー管理職である男性は、父親も40歳時点でホワイトカラー管理職であったという割合が増えているということである。
職業的観点でいえば、橋本健二(1959― )の『階級社会日本』(2001)は佐藤の著書を批判しつつ、「ごく普通の家庭に生まれた人が中小零細企業をおこして社長になるといった道が閉ざされた」ことこそが問題であると指摘した。非ホワイトカラー管理職の親の子供がホワイトカラー管理職になる可能性が減少しただけでなく、零細企業の経営者になる可能性も減少したとなると、若者は将来への希望をもちにくい。格差問題が希望問題でもあることがしだいに明らかになってきた。
そして2004年、山田昌弘(1957― )の『希望格差社会』が刊行された。山田は、日本の経済社会が「ニューエコノミー」とよばれる知識産業主体の社会になることによって雇用が流動化してフリーターなどの非正規雇用者が増加したことを重視し、そこから「努力すれば報われる」という希望がもてる人ともてない人が分断した社会になったと指摘した。
しかし、すべての人が努力して報われたいと思っているのか? 教育社会学の分野では、苅谷剛彦(かりやたけひこ)(1955― )が『階層化日本と教育危機』(2001)において「インセンティブ・ディバイド(意欲格差)」という問題を提起した。すなわち、親の学歴や職業地位が低いほど子供の学習意欲が低い、しかも、勉強ができることが自己能力感(自分は人より優れたところがあると思う感覚)と結び付かなくなり、むしろ勉強ができない子供ほど自己能力感が高いという傾向すらみえる。その根底には、将来のために勉強してもしかたがない、いまを楽しむほうがいいという価値観があると苅谷は指摘する。
こうした経済学、社会学の階層研究成果と、長年の若者研究の経験をあわせて書かれたのが三浦展(あつし)(1958― )の『下流社会』(2005)である。そこで「下流」は「単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低い」と定義された。明日への希望と意欲をもつことができたかつての中流社会が、それらをもつことができない人と、もとうとも思わない人が多くを占める下流社会に変質しているという指摘である。
『下流社会』のベストセラー化によって、格差問題は一部の知識人の関心から一気にバラエティ・ショーでも取り上げられるような大衆問題として浮上し、国会でも格差問題が議論されるようになった。そうしたことばの流行の過程で「下流」ということばは三浦の定義を超えてふたたび「低所得」と同義で使われることも多かったが、しかしそのおかげで「ワーキングプア」(働いているのに生活保護水準以下の暮らししかできない、働く貧困層)、「ネットカフェ難民」(インターネット・カフェ、漫画喫茶等の店舗で寝泊まりしながら不安定就労に従事する、住居喪失不安定就労者)、「生活保護世帯の増加」といった深刻な問題に多くの人々が関心をもつようになったといえる。
しかし議論はまだまだ現在進行形で継続しており、日本が本当に格差社会といえるのかどうかについてすらまだ定説はない。格差はあって当然だという論者もおり、百家争鳴状態である。だが、多くの論者は、機会は平等であるべきであり、結果の悪平等は避けるべきだが、結果の格差を固定化すべきではないし、まして子供の世代に格差が再生産されるべきではないという点についてはおおむね合意しているものと思われる。
[三浦 展]
『小沢雅子著『新「階層消費」の時代――消費市場をとらえるニューコンセプト』(1985・日本経済新聞社)』▽『橋本健二著『階級社会日本』(2001・青木書店)』▽『苅谷剛彦著『階層化日本と教育危機――不平等再生産から意欲格差社会へ』(2001・有信堂高文社)』▽『山田昌弘著『希望格差社会――「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(2004・筑摩書房)』▽『橘木俊詔著『日本の経済格差――所得と資産から考える』(岩波新書)』▽『佐藤俊樹著『不平等社会日本――さよなら総中流』(中公新書)』▽『三浦展著『団塊格差』(文春新書)』▽『三浦展著『下流社会――新たな階層集団の出現』『下流社会 第2章――なぜ男は女に“負けた”のか』(光文社新書)』
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経済面に加えて社会的・文化的側面も考慮に入れたさまざまな社会集団間の差異が,資源配分の不衡により成員の許容を超えて固定ないし拡大している社会を意味する。格差の概念は,ある程度の個人差を含むため,成員の許容度についていかに合意が得られるかという困難を伴うものの,近年における一つの合意の根拠として,国境を越えた人や物の移動が頻繁になるグローバリゼーションを背景に,規制緩和による自由化と市場化を促進してきた新自由主義政策の影響があげられる。政策的に市場化を放置することで,俗に「勝ち組winner」「負け組loser」と呼ばれる許容しがたい格差が生じ,消費文化の浸透や福祉の切り捨てによって「新しい貧困new poor」が増大することが危惧されている。また,情報化や技術革新を軸とした知識基盤社会の中でニューエコノミーが発展することにより,一部の人々に金銭的成功をもたらす一方で,人々の生活が分断され個人や社会の損失も大きくなることが問題にされる。
著者: 大前敦巳
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