日本大百科全書(ニッポニカ) 「VIVO」の意味・わかりやすい解説
VIVO
びぼ
1959年(昭和34)7月、奈良原一高(いっこう)、東松照明(とうまつしょうめい)、川田喜久治(きくじ)、佐藤明(1930―2002)、丹野章(あきら)(1925―2015)、細江英公(えいこう)によって結成された写真家集団。「VIVO」とはエスペラント語で「生命」を意味する言葉。共通の主義主張を掲げた集団というよりはむしろ、写真家としての活動の自律性を確保し表現の新しい可能性を切り拓くことを目標として組織された共同体で、東京・銀座に共同の事務所兼暗室を構えてそれぞれの制作活動を行うとともに、自分たちの作品を自らの手で流通させていくセルフ・エージェントとしての活動も行った。
1950年代後半、第二次世界大戦後の写真界をリードしてきた写真家たちに深く影響を受けながらも、次第にその表現に飽き足らなくなってきた戦後世代の写真家たちが現れてきた。土門拳のリアリズム写真や名取洋之助による報道写真に代表されるように、対象を忠実に再現するだけではもはや世界の現実をとらえることができないと考える写真家が出現してきたのである。それぞれの手法の違いこそあれ、彼らに共通するのは、写真に映し出されている事実よりはむしろ、その事実を映し出している映像を重視する点にあった。個人的な観点にもとづいて対象をとらえ、自己表現の手段としての映像を獲得しようと試みていたのである。1956年に開催された奈良原の個展「人間の土地」(松島ギャラリー、東京)は、おりしもこの新旧の断絶を明確に浮かびあがらせる展覧会となった。同展に対し、旧世代の写真家が激しく反発する一方、奈良原の表現に共鳴した新世代の写真家たちは写真表現の新たなる創造をめざして集結。やがて展覧会を開催するに至るのである。写真評論家の福島辰夫(1928― )によって組織され、1957年から1959年にかけて3回にわたって開催されたこの「10人の眼」展(小西六フォトギャラリー、東京)こそがVIVOの母胎となった。
第1回展(1957)には、後にVIVOのメンバーとなる奈良原、東松、細江、川田、佐藤、丹野に、石元泰博(やすひろ)、常盤(ときわ)とよ子(1930― )、中村正也、川原瞬(1927― )を加えた10人の写真家が集結。また、第2回展(1958)では、石元、常盤、川原をのぞく7人のカラー写真を展示。第3回展(1959)は、再び石元が加わって開催された。そして展覧会終了後1か月もたたないうちに事務所兼暗室が設けられ、VIVOが始動することとなる。結成から2年後の1961年8月には解散したものの、その後もう一度、第3回展のときのメンバーに今井寿恵(ひさえ)(1931―2009)、早崎治(はやさきおさむ)(1933―1993)を加えた10人が集まって「NON」展(1962、松屋、東京・銀座)を開催。VIVOをめぐる運動はこれをもって終結をみた。わずか5年という短い期間ではあるが、「10人の眼」展からVIVO、そして「NON」展へと至る流れのなかで、互いに刺激しあいながら生み出されてきた作品、そしてそれぞれの作家のスタイルは後続の世代に大きな影響を与えた。
[河野通孝]
『福島辰夫著「VIVOの時代 1~9」(『写真装置』1~9号・1980~1982・現代書館)』