スペイン女王(在位1833~68)。フェルナンド7世の子。2歳で母マリア・クリスティナを摂政として即位したが、叔父ドン・カルロスが王位を要求したため内乱となり、カルリスタ戦争が始まった。1843年、政治的混乱を収拾すべく摂政を廃し、幼くして親政を開始した。しかし、カルリスタの蜂起(ほうき)、保守的な穏健派政権に対する進歩派のクーデターが繰り返され、政治不安が続いた。穏健派に支えられたイサベル体制は徐々に支持基盤を狭め、1868年九月革命で倒れた。革命後、亡命先のパリから復位工作を続けたが、その専横的な政治干渉、保守性のために支持されず、子アルフォンソに王位を譲渡した。王政復古(1874)後も帰国を許されないままに、1904年4月9日パリで死去。
[中塚次郎]
カスティーリャ女王(在位1474~1504)。カスティーリャ国王フアン2世の王女として生まれ、18歳でアラゴン王子フェルナンドとひそかに政略結婚(1469)。彼女の異母兄王エンリケ4世の死去(1474)後、ただちにカスティーリャの王位継承を宣言した。しかし王位をめぐる争いは内乱状態になり、1479~80年にようやく決着、正式にカスティーリャ女王となった。1479年アラゴンのフアン2世が死去、フェルナンド(2世)がアラゴンの王位についたため、両国の統合が実現し、スペイン王国が誕生した。しかし統合は王冠の合併にすぎず、両王国は独自の法律と制度を維持した。イサベルの治世最大の事業はイベリアの統一であり、そのための父祖伝来のレコンキスタ(国土回復戦争)の終結を目ざし、イベリアに残った最後のイスラム王国グラナダを1492年攻略した。また、宗教上の統一を図るため、1478年に異端審問所を開設し、隠れユダヤ教徒の追及に乗り出した。1492年にはユダヤ人追放令を出し、改宗か国外退去を命じた。同年、コロンブスの航海を援助し新大陸到達に成功した。国内的には1484年のカスティーリャ条例の発布にみられるように、法整備を図るとともに、王室諮問院やカスティーリャ諮問院の再組織化など官僚組織を整備し、諸税の徴収の効率化によって王室収入の増加を実現した。これらの政策の最終的意図は王権の強化であり、以降の絶対王制確立への強力な第一歩であった。この意味で、イサベルの治世は中世から近世への重要な橋渡しとなった。
[飯塚一郎]
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