ソ連は1962年、米国が打倒を目指すキューバのカストロ政権を支援しようと、中距離核ミサイルを搬入し米情報機関が探知した。10月16日に報告を受けたケネディ大統領は22日に事態を公表、ミサイル基地撤去を求めキューバを海上封鎖した。米国はキューバからのミサイル攻撃への報復も宣言、核戦争の緊張が高まった。秘密交渉を経て米国はキューバ不可侵と、トルコからの対ソ攻撃用のミサイル撤去を約束。ソ連は28日に基地撤去を通告し「13日間」の危機は去った。広島、長崎への原爆投下以来、人類が最も核使用に近づいた。
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1962年10月22日,ケネディ・アメリカ大統領はソ連がキューバに中距離ミサイル基地を建設中であることを発表,その撤去を要求し,艦艇183隻,軍用機1190機を動員してキューバを海上封鎖した事件。キューバでは,1959年1月カストロの革命政府が成立し,61年1月にはキューバ,アメリカ両国は断交した。ケネディ政権は同年4月,反カストロ分子のキューバ侵攻を援助,これに失敗(ピッグス湾事件)すると,62年1月,米州機構からのキューバ除名,食糧・医薬品以外の全面禁輸などにより,政治的・経済的なキューバの孤立化をはかった。一方ソ連もキューバの戦略的位置に着目し,対キューバ援助を拡大し,62年9月には武器援助協定を締結した。ケネディ政権はソ連のミサイル基地建設を空中偵察によって知ると,海上封鎖を選び,西半球に対するキューバからのミサイル攻撃は,ソ連のアメリカ攻撃とみなし,ただちに報復するとの態度をとった。国連緊急安保理事会での交渉や非公式の接触を通じて,ケネディはキューバ不侵攻を約束し,フルシチョフは10月28日,ミサイル撤去を発表,米ソ核戦争の危機は回避された。
キューバ危機後,米ソは急速に接近し,63年7月には米ソ直通電話(ホットライン)設置が決定され,8月には部分的核実験禁止条約が締結された。しかし,フランスは危機に際してアメリカを支持したものの,アメリカの核脅迫力の低下を懸念し,独自の核兵力を開発するにいたった。一方,ソ連陣営でも,頭越しにミサイル撤去を決定されたカストロ政権とソ連との関係が冷却化し,中国もミサイル設置を冒険主義,その撤去を降伏主義だとしてソ連を非難した。こうしてキューバ危機は,米ソ平和共存と多極化傾向を促進する契機となった。また危機の結果,ソ連では核戦力と海軍力の立ち遅れが再認識され,キューバ撤退は64年10月のフルシチョフ失脚の一因にもなった。アメリカでは,この危機をきっかけに,国益のために政府が国民に事実を隠したり,虚偽の情報を与えることが正当化されうるかという,いわゆるニュース操作をめぐる論争が生起した。
執筆者:進藤 栄一
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1962年10月、当時のソ連がキューバに攻撃用のミサイルを設置したため生じた事件。ミサイルの搬入阻止をめぐって米ソ両国が対決寸前にまでいき、世界中を核戦争瀬戸際の恐怖に陥れた。当時、アメリカのキューバに対する敵視政策はエスカレートしており、62年1月には米州機構がキューバを除名するなどキューバ封じ込めが進んでいた。これに対してキューバも同年2月に「第二ハバナ宣言」を発してラテンアメリカでの革命の必要性を強調するなど、キューバをめぐる西半球での冷戦は一つの頂点に達していた。このような情勢のもとでキューバとしては、革命を反革命から防衛し、ラテンアメリカでの革命を促進するための支えとなる強力な武器―攻撃用ミサイル―を必要としていた。一方、キューバとの関係を深めつつあったソ連は、フルシチョフ首相がキューバ防衛の意志を表明するとともに、ソ連周辺諸国に設置された対ソミサイルに対抗して、キューバに攻撃用ミサイルを設置することを考えていた。
1962年10月、キューバに攻撃用ミサイルが設置されているのを確認したアメリカのケネディ政府は、10月22日、ソ連に対して、ミサイルがさらに搬入されるのを阻止するためキューバを海上封鎖することを通知するとともに、ソ連がただちにキューバのミサイルを撤去することを要求した。ソ連はこの要求を拒否し、キューバも海上封鎖は「主権に対する侵害」だとして非難した。かくして10月24日、アメリカによるキューバの海上封鎖が開始され、米ソは衝突寸前にまでいった。しかしフルシチョフからの申入れで交渉が行われ、アメリカがキューバへ侵攻しないことを条件に、ソ連がミサイルを撤去することに同意したため、この危機は回避された。
この解決はキューバの頭越しになされたものであったため、その後キューバの指導者たちはフルシチョフに対して不信を抱くようになり、フルシチョフにとってもこの事件はのちに失脚する遠因となった。
[加茂雄三]
『加茂雄三編『ドキュメント現代史11 キューバ革命』(1973・平凡社)』
キューバ・ミサイル危機ともいう。1962年10月,ソ連のフルシチョフ首相がキューバに中距離核ミサイル基地の建設を図ったことに端を発する,冷戦史上最大の危機。アメリカによるキューバ侵攻作戦,カストロ政権転覆活動に危機感を強めたフルシチョフのねらいは,キューバの防衛とともに核戦力の均衡におけるソ連の劣勢の挽回にあった。しかし基地の完成前にアメリカが察知。ケネディ大統領はキューバの海上封鎖を発表し,ミサイル基地の撤去を要求した。アメリカの圧倒的な核戦力を前に,フルシチョフはケネディが内密に提示したトルコのアメリカ製中距離ミサイルの撤去を条件に要求を受諾,危機をようやく回避した。フルシチョフが求めたアメリカのキューバ不侵攻の約束は,ミサイル撤去に関する国連査察をカストロが拒否したことを理由に,ケネディは正式に与えることはなかった。キューバ危機をへて両首脳はホットラインの設置,部分的核実験禁止条約(PTBT)に合意し,米ソ「デタント」への歩みを確固たるものにした。
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…むしろ比較的議会の束縛を受けない外交面で,大統領としての足跡を残したといえる。就任早々,キューバ侵攻問題でつまずいたが,ベルリン問題,キューバにおけるソ連ミサイル基地問題(キューバ危機),核実験停止等でソ連フルシチョフ首相と激しく対立,渡り合いつつ,しだいに米ソ和解の道を切り開き,63年8月部分的核実験停止条約の調印にまでもっていった。他面,中国との外交正常化は残され,彼の政権の下で軍事顧問団の名で1万6000の軍人がベトナムへ派遣され,軍事介入が進められたことも忘れてはならない。…
…
[軍事的緊張]
米ソ間の,あるいは東西両ブロック間の対立は,厳しい軍事的緊張を伴うものであった。実際,朝鮮戦争のように軍事的対立が戦争に転化した場合もあったし,キューバ危機のような〈核戦争〉が勃発する危険をはらんだ国際危機がいく度となく存在した。その原因としては,次の三つをあげることができる。…
※「キューバ危機」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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