翻訳|Swaziland
基本情報
正式名称=スワジランド王国Kingdom of Swaziland
面積=1万7364km2
人口(2008)=117万人
首都=ムババネMbabane(日本との時差=-7時間)
主要言語=英語,スワジ語
通貨=リランゲニLilangeni(複数エマランゲニEmalangeni)
アフリカ南部,南アフリカ共和国とモザンビークに挟まれた内陸の小国。王制をとる。王宮は首都ムババネから約5km離れたロジスレジにある。
国土は,トランスバール高原からモザンビーク平原に下る傾斜部に含まれ,西部のハイ・ベルト(標高1000~1700m)から,ミドル・ベルトを経て,東部のロー・ベルト(200~400m)へと低下する。南緯26~27°に位置し,月平均気温は,東部で1月27℃,7月19℃,高度のため温和化する西部で1月20℃,7月12℃を示す。降水はインド洋から南東モンスーンの吹く10~3月に集中し,東部で平均年500~700mm程度であるが,西部高地では1000~2000mmにも達する。したがって,水量の豊かな河川に恵まれ,北からコマティ川,ウンベルージ川,ウストゥ川などの本・支流が並ぶ。
執筆者:戸谷 洋
総人口の90%はバントゥー系のスワジ族Swaziで,そのほかズールー族,トンガ族,シャンガーン族などの部族がいる。また白人とカラード(混血)も少数が居住している。スワジ族はトウモロコシなどを主作物として栽培する農耕民で,牛などの家畜も飼養する。16世紀にこの地に定着し,19世紀初頭にはスワジ王国を形成した。その後イギリス領を経て,1968年にスワジランド王国として独立した後も,引き続いて伝統的な政治組織が存続した。政府が白人の資本を導入し優遇する一方で,一般民衆は自給農業にとどまり,現金収入の道を賃金労働に求めるため,成人男子のほとんどは出稼ぎへ出ている。とくに南アフリカ共和国の鉱山労働者として成人男子の15%が出かけている。公用語としては英語とスワジ語が用いられる。スワジ語はクリック(舌打音)をもっている。人口の60%はキリスト教に改宗しているが,部族の伝統的な宗教も残っている。
執筆者:赤阪 賢
この地域の歴史は遺跡から石器時代にさかのぼれるが,現在のスワジ族が定着する以前の先住民としてサン(ブッシュマン)がおり,その証拠として岩壁画が国内に広く分布している。16世紀にバントゥー族が北方より南下してき,その一派のスワジ族がこの地域に定着した。19世紀初頭にスワジ族はスワジ王国を形成したが,近隣のズールー王国と争うことが多かった。また南方のイギリス領ケープ植民地から内陸に移動したボーア人は,1840年代に海への出口を求めてこの地域の併合を企てた。このような二つの圧迫を受けてスワジ王国は,イギリスの保護下に入ったり,ボーア人の統治下に置かれたりしたが,ボーア戦争後の1902年正式にイギリス高等弁務官領となった。しかしイギリスの間接統治支配下でスワジ族の伝統的政治組織はそのまま残された。21年即位したソブフザ2世Sobhuza Ⅱ(1899-1982)は,白人に奪われた土地の奪回を目ざしたが成功しなかった。60年の多くのアフリカ諸国の独立の影響を受けて63年に制憲会議が開かれ,ついで翌64年新憲法の下で総選挙が行われ,国王を党首とするインボコドボ国民運動が圧勝した。67年には内政の自治を得,68年9月6日スワジランド王国として独立し,ソブフザ2世を頂く立憲君主国となった。
独立後,国会は上院12名,下院30名の二院制(議席はすべてインボコドボ国民運動)によって運営されたが,72年の総選挙で野党ヌグワネ民族解放会議(党首ズワネ)が3議席を獲得すると,国王は翌73年憲法を廃止して議会を解散し,同時に政党活動を禁止した。そして国王はティンクンドラTinkhundlaと呼ばれる族長会議を諮問機関として行政,立法,司法の三権を独占した。77年この国王独裁に対して学生が暴動を起こしたが弾圧された。78年に新憲法が公布されたが,新設の二院制議会の議員は国王の任命議員と間接選挙による議員からなる。さらに国王は閣僚任命権,立法拒否権を有し,国王独裁色の強い憲法となっている。これに対し反国王勢力はスワジランド解放運動を組織したが,指導者は直ちに逮捕・拘禁された。82年ソブフザ2世が死亡し,その後約1年間,後継者をめぐって王室内部で抗争が展開されたが,83年にマホセティベ王子(1968- )を成人後即位させることが決定された。86年4月,王子はムスワティ3世Mswati Ⅲとして即位した。ムスワティ3世は自己の権威拡大のためティンクンドラを重用した。しかし90年以降の政治的民主化要求が高まる中で同年1月ヌグワネ民族解放会議のズワネ党首が直接議会選挙制を主唱し,人民連合民主化運動(PUDEMO)も王室支配を批判した。これらに対し国王は軍と警察を使い弾圧した。しかしPUDEMOに対する国民の支持は高まり,国王はティンクンドラの見直しに合意し,委員会(ブセラ)を発足させた。ブセラの勧告により国王は93年前半の議会選挙実施を約束した。議会選挙は93年10月に実施され,首相を含む前閣僚のほとんどは議席を失った。しかし政党活動は依然として禁止されており,複数政党制を認める新憲法の制定が急務となっている。95年初め以降,反国王勢力の中心は政治組織からスワジランド労働組合連合(SFTU)に移り,95年3月と96年1月にSFTUは27項目の要求を掲げてゼネストを実施した。
地勢が西側から山岳地帯,高原地帯,低地帯に分かれ,国土全域を三つの大きな川が東西に流れているため,山岳地帯(ここでは林業が主)を除き地味は豊かで,農業,牧畜に適している。白人の入植している高原地帯のロマティ,マルカーンス・バレーではかんきつ類,米,パイナップル,低地帯のムルメ,ビッグ・ベントでは灌漑によってサトウキビ,綿花などの輸出用農産物が栽培されている。アフリカ人地域ではトウモロコシ,モロコシ,いも類の自給用作物生産が中心である。林業,鉱業は外国資本によって生産され,林業ではウストゥ・パルプ会社(イギリス系),鉱業ではハベロック・アスベスト鉱山(イギリス系),ムパカのスワジランド炭鉱会社(南ア系)が主体となっている。隣国に工業国南ア共和国があるため工業は未発達で,高原地帯のマンジニ工業区には日本資本との合弁によるジッパー製造工場,テレビ部品製造下請工場,肥料工場などがあるにすぎない。
執筆者:林 晃史
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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南アフリカ,モザンビークの国境の山地にある小王国。首都ムババネ。1820年頃スワジ人が王国を建設,19世紀末以降の争奪戦のなかでイギリス保護領として「延命」,1968年独立。今なお伝統的王制が存続する。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
「エスワティニ」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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