カナダの歴史学者,外交官。牧師D.ノーマンの子として日本に生まれ,15歳まで日本に滞在した。トロント大学,ケンブリッジ大学,ハーバード大学で日本史,中国史を学ぶ。1939年カナダ外務省に入り,40年から41年まで東京のカナダ公使館に勤める。第2次大戦開戦後交換船で帰国したが,戦後再び来日し,駐日カナダ代表部,極東委員会,対日理事会で活躍する。この間,都留重人,丸山真男らの歴史学者,文化人と交友をもつ。50年帰国し,外務省極東局長,情報局長を歴任,51年の対日講和条約では首席随員に選ばれる。54年8月エジプト大使に就任したが,おりから高まったアメリカの〈アカ〉攻撃に抗議して,57年4月カイロで自殺した。
ノーマンは《日本における近代国家の成立》(1940),《日本における兵士と農民》(1943)の2著で欧米での日本近代史研究者としての評価を高めた。〈明治時代の政治的・経済的問題〉の副題をもつ《日本における近代国家の成立》において彼は,〈明治変革の特質のうち,現代日本の経済,政治ならびに外交政策を大きく規定したところのものを選び出してこれを分析し〉,その変革過程を明治憲法制定による国家権力の確立までを論述している。そして,日本の近代化の推進力を,権力中枢に上昇してくる下級武士出身の官僚の指導的役割と,国家の保護統制のもとに勢力を伸張してきた商業資本の結合としてとらえた。ヨーロッパ史との比較を随所に織りまぜながらの考察と広範な資料(原資料)に拠る論述は,日本の歴史学界に新風を吹きこみ,戦後日本の歴史学発展に寄与した。《ハーバート・ノーマン全集》(全4巻)がある。
執筆者:中村 尚美
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アメリカのソプラノ歌手。ジョージア州オーガスタ生まれ。少女時代より教会の聖歌隊などで歌い、ローザ・ポンセルRosa Ponselle(1897―1981)やマリアン・アンダーソンを聴いていたノーマンは、黒人霊歌の世界に親しみながらピアノを学んだが、将来は医学の道に進もうと考えていた。ワシントン市のハワード大学で声楽を学び、ボルティモアのピーボディ音楽院を経てミシガン大学でピエール・ベルナックPierre Bernac(1899―1979)などに師事する。
1968年ミュンヘン国際音楽コンクール声楽部門で優勝。翌1969年ベルリン・ドイツ・オペラと契約、『タンホイザー』のエリーザベート役でデビュー。その後ベルリン音楽祭で『フィガロの結婚』に出演、大成功をおさめる。以後、イタリアやイギリスなどに招かれるようになり、世界の主要歌劇場で活躍する。1983年には、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場100周年記念期間中に、ベルリオーズのオペラ『トロイの人々』に出演、高い評価を受ける。
日本には1985年(昭和60)に初来日。その後も来日コンサートを数多く開く。1995年(平成7)東京で行われた「ブーレーズ・フェスティバル」でアルバン・ベルクの歌曲を歌った彼女の歌声は、聴衆に深い感銘を与えた。また、ノーマンはオペラへの出演ばかりでなく、コンサート活動も世界各国で行い、ドイツ歌曲からフランス歌曲、またアンコールには必ず黒人霊歌を歌うなどレパートリーは幅広い。
彼女の輝くようなソプラノは力強く、同時にまた繊細でささやくようで、聴くたびに大きな衝撃と深い感銘を与えてくれるノーマンは現代最高のソプラノ歌手であり、史上最高のアーティストの一人であると評され、1989年のレジオン・ドヌール勲章をはじめ、数々の賞、称号を贈られる。1996年のアメリカ、アトランタ・オリンピック開会式ではテレビ中継を通じて全世界に彼女の歌声が流れた。
[小沼純一]
カナダの歴史家、日本研究者、外交官。カナダ・メソジスト派の牧師ダニエル・ノーマンの子として、1909年(明治42)9月1日長野県に生まれ育つ。1929年カナダ、トロント大学ビクトリア・カレッジ入学、のちイギリス、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学び、さらにトロント大学大学院、ハーバード大学、コロンビア大学などで日本史、中国史を研究した。1939年カナダ外務省に入り、1940年から1941年まで東京のカナダ公使館に勤務、太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)後、交換船で帰国した。戦後ふたたび来日して占領軍総司令部、駐日カナダ代表部、極東委員会、対日理事会などで活躍、占領政策にも影響を与えた。その間、太平洋問題調査会(IPR)や進歩的アジア問題誌『アメレシア』などにより著作活動を展開、『日本における近代国家の成立』(1940、邦訳1947)、『日本における兵士と農民』(1943、邦訳1947)などで、「講座派」の影響を受けつつも広く深い歴史的教養と「無名のものへの愛着」に裏打ちされた独自の歴史叙述により日本研究の第一人者としての地歩を築くとともに、都留重人(つるしげと)、丸山真男(まさお)らの学者文化人と交遊し、戦後日本の歴史学界にも広い影響を与えた。のちカナダ外務省極東部長、情報部長などを経て1956年エジプト駐在大使となり、スエズ運河国有化問題に尽力中、アメリカのマッカーシズム(赤狩り)の嵐(あらし)にさらされ、ついに1957年4月4日カイロで自殺した。
[岡 利郎]
『『特集ハーバート・ノーマン』(『思想』1977年4月号所収・岩波書店)』▽『大窪愿二編訳『増補 ハーバート・ノーマン全集』全4巻(2001・岩波書店)』▽『加藤周一著『ハーバート・ノーマン――人と業績』(2002・岩波書店)』
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…このように各地に門人がおり,また著書の一部は出版されたにもかかわらず,昌益の思想が世に知られた形跡はなく,1899年ごろに哲学者狩野亨吉が稿本《自然真営道》を入手し,その特異な思想に注目するまでは,全くうずもれた存在であった。やがて第2次世界大戦後に至り,E.H.ノーマンの著書(邦訳名《忘れられた思想家》)の影響などもあって,封建的な身分制度を根本から批判した日本で唯一の思想家として広く知られるようになった。 昌益の思想は,徹底した平等主義を特色とし,人はすべて同一である(〈人ハ万万人ニシテ一人ナリ〉)から,ひとしく〈直耕〉すなわち農業労働に従事し,男女は対等に一夫一婦の関係を結ぶのが,人間の本来の姿であるとし,このような理想の社会を〈自然ノ世〉とよぶ。…
…その評価については定説というべきものはないが,1866年に高まった百姓一揆・打毀(うちこわし)に示される民衆の幕藩体制への抵抗がこの運動により弱まったとするもの,幕藩体制の基盤である封建的共同体からの離脱をはかった世直し運動の変型として評価すべきであるとするもの,またそこに伝統的な宗教意識や行動が再生されている点に注目するものなどがある。なお,E.H.ノーマンの〈日本におけるマス・ヒステリア〉(1945)は先駆的な研究として記憶される。【西垣 晴次】。…
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