ミタンニ王国(読み)ミタンニおうこく

改訂新版 世界大百科事典 「ミタンニ王国」の意味・わかりやすい解説

ミタンニ王国 (ミタンニおうこく)

前2千年紀中葉,北メソポタミアシリアを中心に栄えた王国。カフカス南部,アルメニア地方から,前3千年紀を通じて徐々に南下してきたフルリ人は,前2千年紀に入ると,北メソポタミア,シリアにかけて広範囲に居住するようになり,いくつかの小王国を建てた。その後,北方あるいは東方から移動してきたインド・アーリヤ系の部族の支配下に統一され,ミタンニMitanni王国として強力な政治,軍事力をもつにいたった。移動してきたインド・アーリヤ系の部族は少数であったが,おそらく軍事力の優位から圧倒的多数のフルリ人を従属させたものと思われる。支配者階級のインド・アーリヤ系の部族は,マリヤンナmariyannaと呼ばれていた。彼らの言語については不明な点が多いものの,トゥシュラッタ,アルタタマ,ビリダシュワといった人名,ミトラ,インドラ,バルナなどの神名,さらにボアズキョイ出土の〈キックリ文書〉に見られる数詞などから,サンスクリットとの関係が指摘されている。

 ミタンニ王国は,前16,前15世紀のサウスタタルSaustatarのときに勢力が最大となり,その版図は小アジア南東部のキズワトナ,アララク(テル・アッチャナ)など北シリアのほぼ全域を含み,東部はティグリス川東岸のヌジ,キルクークの一帯にまで及んでいた。その勢力の伸長の背景には,ヒッタイトがミタンニの調教師キックリKikkuliを招聘していることなどから推測して,ミタンニの馬術がオリエント世界の他地域に比較して優れていたことがあげられる。エジプトトトメス3世のシリア遠征,ヒッタイト王のアレッポ侵攻などにより,北シリアは一時混乱期を迎えるが,アルタタマArtatama,シュッタルナShuttarna,トゥシュラッタTushrattaの3代にわたって,トトメス4世,アメンヘテプ3世に入嫁させるなど,エジプトと密接な関係を維持,前15世紀後半から前14世紀初頭にかけて,比較的安定した時期が続いた。しかし,前1385年ころ,トゥシュラッタがミタンニ王に即位すると,〈フルリ国の王〉と称するアルタタマとの内紛が表面化,アルタタマは,ヒッタイト王スッピルリウマ1世と協約を結んで,トゥシュラッタ側を攻撃した。スッピルリウマ1世の2回にわたる遠征で,ミタンニ王国の都ワシュガンニWassuganniは陥落し,トゥシュラッタは暗殺された。その後,ミタンニ王国はヒッタイトの保護国となり,一時トゥシュラッタの息子マッティワザMattiwaza(クルティワザKurtiwaza)のもとで再興されたが,アッシリアに吸収される形で滅亡した。ミタンニ王国の都ワシュガンニは,ハブール川上流域にあったと推定されているものの,まだ発見されていない。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミタンニ王国」の意味・わかりやすい解説

ミタンニ王国
ミタンニおうこく
Kingdom of Mitanni

前 16~14世紀に北メソポタミアに建国されたフルリ人の王国。ユーフラテス川の支流ハブル川上流のワシュカンニを首都として,イラン高原北西部から北メソポタミア,北シリアにかけて大きな勢力を及ぼした。王名や神名から判断して,支配階級インド=アーリア語派であった。アッシリアを長く支配下にとどめ,エジプトとは当初争いを繰り返したが,やがて政略結婚による両国間の友好関係が長く維持された。アマルナ文書には,エジプトのイクナートンに宛てたミタンニ王の書簡が残っている。しかし前 14世紀ヒッタイトの王シュッピルリウマシュ1世に侵入され,首都も陥落して王国の西半分はヒッタイト領となり,残った王国領 (ハニガルバトと改称) もヒッタイトの朝貢国となった。このときアッシリアが独立して王国の東部を支配下に置き,前 13世紀のヒッタイトとアッシリアの争いにハニガルバトはヒッタイトを助けたため,以後アッシリアの臣従国となり,独立運動も失敗して国土は破壊され,人民は他の地方に強制移住させられ,ハニガルバトはアッシリアの属州となり,ミタンニ王国は滅亡した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ミタンニ王国」の意味・わかりやすい解説

ミタンニ王国【ミタンニおうこく】

古代オリエントの王国。Mitanni。支配階級はインド・アーリヤ系。前2千年紀前半,フルリ系民族にひき続いてメソポタミア,シリアに侵入,馬と戦車戦術を広めた。小アジア南部・シリアを支配し,エジプトとも通交。前16,15世紀に最盛期を迎えたが,後に分裂して,前14世紀ヒッタイトとアッシリアに滅ぼされた。その首都ワシュガンニの遺跡は未発見。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ミタンニ王国」の解説

ミタンニ王国
ミタンニおうこく
Mitanni

古代北メソポタミアに成立した,フルリ人を主体とするアーリア人との連合王国
前16世紀ごろ,オリエント最強の国家となり,北シリア諸国・アッシリアを支配した。ヒッタイトが強力になってからは,エジプトと密接な関係を結び,これに対抗した。しかし,前14世紀,内乱に乗じたヒッタイトに敗れ,ついでアッシリアに併合された。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のミタンニ王国の言及

【インド語派】より

… インド語派の人々がその地に入る前の痕跡が,小アジアの前15~前14世紀ごろの文献に認められる。彼らはヒッタイト帝国に従属したミタンニ王国の上層部を占めていたらしい。その国の王の名や協約のときの誓いの神々の名,あるいは馬の調教の書に用いられている数詞などに,古いインド語で理解しうる形が指摘される。…

【サンスクリット】より

…ベーダ語の話し手の痕跡は,前14世紀ころの小アジアの文献にも認められる。ヒッタイト帝国に滅ぼされたミタンニ王国の王の名の多くは,Artatama(=サンスクリットṛtatama‐〈最も誠実な〉)をはじめサンスクリットで解釈される。またこの両国の王が交わした条約の文書の中にみられる誓いの神の名にも,ミトラ,バルナ,インドラ,ナーサティアのように,ベーダ神話で活躍する神の名が登場する。…

【ヒッタイト】より


[新王国時代]
 この時代の初期の歴史も,資料が乏しく明瞭とはいえないが,トゥドハリヤ2世/ニカルマティ,アルヌワンダ2世/アシュムニカルの2組の王,王妃による年代記,条約文などが比較的残っており,当時の情勢の一端を知ることができる。また,ヒッタイト王国の周辺部では,北シリアでミタンニ王国が隆盛となり,アレッポ,キズワトナに侵攻,またアナトリアの北部ではカシュカ族が優位を誇り,一時はハットゥサも陥落するなど苦境に立たされた。このような窮地の状態から脱し,新王国の基盤を築いたのは,スッピルリウマ1世(在位,前1380ころ‐前1340ころ)である。…

【フルリ人】より

…前17世紀末から前16世紀初頭にかけて北シリアにおける旧勢力はヒッタイトに滅ぼされるが,まもなくヒッタイトが内紛のためシリアから身を引いている間に,フルリ人はシリアを中心にその地歩を固めた。この時期でとくに重要なのは前1500年ころまでに成立していたと思われるミタンニ王国である。ミタンニ王国【中田 一郎】。…

【メソポタミア】より

… イシン・ラルサ時代からバビロン第1王朝時代にかけては各種の粘土板文書が多く残っているから,統治体制,司法制度,商業,土地制度,尼僧制などに関して,みるべき多くの研究成果がある。バビロン第1王朝
[カッシート人,フルリ人,ミタンニ王国]
 西イランにいたカッシート人はサムスイルナ時代に南メソポタミアに現れたが,その言語はまだわかっていない。バビロン第1王朝の崩壊後カッシート人は前12世紀中葉までバビロニアを支配した。…

※「ミタンニ王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android