伊島(読み)いしま

日本歴史地名大系 「伊島」の解説

伊島
いしま

蒲生田がもうだ岬の東方海上にある島で、四国最東端に位置する。正確には本島・まえ島・棚子たなご島の三つの島から成りたっている。棚子島は古くから無人島で、前島はかつては集落があったが今はない。住居が密集しているのは本島だけで、今日では伊島といえば前島・棚子島を除いて本島のみをさしていう場合が多い。本島は周囲約一二キロ、島の面積三平方キロ。前島は平成八年(一九九六)一部が埋立てられ、岸壁・船着場・倉庫などが建設されている。また前島橋が新設され本島とつながっている。

人の定住がいつ頃から始まったのかは定かではないが、古墳時代のものと思われる土器片が発見されている。島には平安時代に空也が来訪したという伝承がある。源為憲の「空也誄」には「阿(波)・土佐両州海中有湯島矣、地勢霊奇、天然幽、伝有観世音菩薩像、霊験掲焉」とあり、空也は観音菩薩に会うため湯島へ詣でたと記される。また慶滋保胤の「日本往生極楽記」にも「阿波・土左両州之間有島、曰湯島矣」とみえ、同内容の記述があるほか、各種の空也の伝記類にも同様の記載がみられる。近世にはこれらにいう「湯島」が伊島をさすものと考えられていた(阿波志)。現在島では観音信仰が盛んで、高野山真言宗松林しようりん寺の奥院である野尾辺のおべの観音堂は空也が開いたと伝える。戦国期には小笠原刑部亮の居城伊島城があったと伝える。江戸時代には徳島藩海上方の森甚五兵衛が水軍の基地の一つとして重要視したため、島の最高所のろし山には遠見番所が置かれていた。貞享二年(一六八五)の椿泊漁場裁断証文(民政資料)によると、椿泊つばきどまり浦から伊島まで三里、家数四八はすべて森甚五兵衛の家来であった。島の開発が本格的に進んだのは江戸時代中期で、大家・中屋・三軒屋の三家が伊島開発の草分けと伝える。現在伊島へは答島こたじま港から出る連絡船が唯一の交通機関である。答島港から伊島までは海上約二二キロ、途中椿泊港に寄港する。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊島」の意味・わかりやすい解説

伊島
いしま

徳島県東部、蒲生田(かもだ)岬の東方約6キロメートルの紀伊水道にある島。阿南市に属する。面積1.45平方キロメートル、周囲9.5キロメートル。山がちで最高点はのろし山の121メートル、山頂に伊島灯台が立つ。山には、この島にしか自生しないイシマササユリが咲く。南西部の平坦(へいたん)地に風待ち港がある。かつては伊島千軒といわれてにぎわったが、現在では離村者が多い。漁業は小規模で一本釣りや潜水によるアワビの磯漁(いそりょう)が多く、敷網業や磯立網業もみられる。漁期は5月から9月で、冬は北西の季節風が強く、潜水夫として島外で働く人も多い。磯釣りの好地で、遊漁船も出る。阿南市橘(たちばな)の答島(こたじま)港から1日3往復の連絡船がある。人口195(2009)。

[高木秀樹]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊島」の意味・わかりやすい解説

伊島
いしま

徳島県東部,蒲生田岬の沖約 6kmの紀伊水道にある島。別称弁天島。阿南市に属する。集落は南西部伊島漁港付近に集中。漁業人口が多く,一本釣りや潜水によるアワビの磯漁業が主。冬は北西の季節風が強く,潜水作業員として季節労働に従事することが多い。周辺の海域とともに室戸阿南海岸国定公園に属する。面積 1.58km2。人口 188 (2000) 。

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デジタル大辞泉プラス 「伊島」の解説

伊島

徳島県阿南市、蒲生田岬の東方沖約5.5キロメートルの紀伊水道に位置する島。四国最東端の島で、面積約1.45平方キロメートル。アワビ、サザエなどの潜水漁が盛ん。白亜の灯台があり、島の固有種イシマササユリなど希少な動植物が見られる。

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