中国、清(しん)末の排外運動の英雄。欽州(きんしゅう)(広東(カントン)省欽県)客家(はっか)出身といわれ、天地会系に属し、太平天国滅亡後、呉鯤(ごこん)とともにベトナムに進入、阮(げん)朝に帰順した。1867年、黒旗軍を編成し紅河(ソンコイ川)上流部を支配し、ベトナム・雲南交易により強力な半独立国を形成した。1873年フランス軍人ガルニエがハノイを占領するや、ベトナム軍とともにこれを攻撃敗退させ、さらに1883年ハノイ占領中のリビエールを倒した。清仏戦争に際しては、越南東京(トンキン)(ベトナム北部)経略大臣として清朝派遣の唐景菘(とうけいすう)に従って善戦したが、1885年天津(てんしん)条約により中国に戻り、広東南澳鎮(カントンなんおうちん)総兵となった。日清戦争とともに台湾に渡り、下関条約後も台湾民国総統として抗日戦を続行したが、1896年敗れて帰国した。以後排外運動の英雄として、しばしば要職についた。
[桜井由躬雄]
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1837~1917
清末の軍人。広東省欽県の客家(ハッカ)出身。広西で盗賊の群れに入り,清軍に追われ,安南に逃れて阮(グエン)朝に帰順。1867年黒旗軍を編成した。73~85年フランスの安南侵略に勇敢な抗戦を続けた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…19世紀後半ベトナム北部に割拠して,フランス軍に抵抗した中国天地会系の私軍。首領の劉永福は本来,天地会系農民軍の武将であったが,1865‐66年ころ清軍に追われて首領の呉鯤とともにベトナム北部に入り,67年頃からソンコイ川上流の雲南通商路の要衝ラオカイ(老開,保勝)に拠って,中国・ベトナム貿易路を支配する半独立国を形成する一方,グエン(阮)朝に帰順してその私軍黒旗軍を率い,他の中国系匪賊と戦った。しかしソンコイ川を通じての中国交易はフランスの求めるところであり,73年黒旗軍はハノイ占領中のM.J.F.ガルニエを破って殺し,83年にはリビエールを戦死させ,トゥドゥック(嗣徳)帝から嘉賞された。…
…1862年の第1次サイゴン条約についで,74年の第2次サイゴン条約によってフランスがベトナムを実質上保護領化すると,清は宗主権を主張してフランスに抗議した。82年,劉永福の率いる黒旗軍がソンコイ川流域の鉱山を調査していたフランス隊を妨害したとの口実でフランスはハノイを占領し,清もこれに対抗して北ベトナムへ出兵した。この紛争は84年(光緒10)5月,天津において北洋大臣李鴻章と海軍中佐フランソア・エルネスト・フルニエとのあいだで協定(李=フルニエ協定)が調印されて解決したかにみえたが,協定の撤兵に関する条項が不備であったため,同年6月に再び両国は武力衝突した。…
…1895年5月25日に樹立され,総統に台湾巡撫唐景崧(とうけいすう),副総統兼全台義軍統領に台湾の挙人邱逢甲(きゆうほうこう)が就任し,年号を永清と定め,国旗も制定された。しかし,北白川宮能久(よしひさ)親王が率いる日本軍の攻撃をうけ,6月4日には唐総統が中国に逃れ,南部で抵抗をつづけた劉永福も10月19日に大陸に逃れたことによって崩壊した。【田中 宏】。…
※「劉永福」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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