大原総一郎(読み)オオハラ ソウイチロウ

20世紀日本人名事典 「大原総一郎」の解説

大原 総一郎
オオハラ ソウイチロウ

昭和期の実業家,社会・文化事業家 倉敷紡績社長



生年
明治42(1909)年7月29日

没年
昭和43(1968)年7月27日

出生地
岡山県倉敷市新川町

学歴〔年〕
東京帝国大学経済学部〔昭和7年〕卒

学位〔年〕
経済学博士〔昭和36年〕

経歴
倉敷紡績のほか大原社会問題研究所、大原美術館などを創設した孫三郎の長男。昭和7年倉敷絹織(のちクラレ)に入社。欧州外遊のあと、13年常務、14年社長、16年から倉敷紡績社長も兼ねる。18年父の死後、大原農研、大原社研、大原美術館などの事業も継承。22年請われて物価庁次長に就任、23年倉敷絹織社長に復帰。25年、桜田一郎京大教授が発明した国産合成繊維ビニロンの企業化に成功、38年にビニロンプラントを中国へ輸出し反響を呼んだ。39年池田内閣のとき国民生活審議会会長となり「公害は企業の責任で解消すべきである」という正論をまとめたが容れられなかった。版画棟方志功陶芸の富本憲吉らを育て励ます一方、“美しい国土”を守る運動を進めた。財界活動では関西経済連合会副会長を務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大原総一郎」の意味・わかりやすい解説

大原総一郎
おおはらそういちろう

[生]1909.7.29. 岡山
[没]1968.7.27. 東京
実業家。 1932年,東京大学経済学部を卒業後,一族の経営する倉敷紡績の関連会社・倉敷絹織 (現クラレ ) に入社。 39年社長に就任し,41年から倉敷紡績社長も兼任した。経営者として評価を高めたのは,独自の開発によるビニロン工業化だが,他方で,大原農業研究所大原社会問題研究所,倉敷中央病院,大原美術館などの事業を発展させたことでも著名。 64年国民生活審議会会長に就任し,初めて企業の社会的責任を強調,公害問題に対して発生者責任の原則を提唱した。私生活では R.シューマンとゴッホに魅せられ,音楽を生活の一部とした教養人であった。起業家精神をもち,自然と人間,科学技術を総合的にとらえ直した経営者の1人である。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大原総一郎」の解説

大原総一郎 おおはら-そういちろう

1909-1968 昭和時代の経営者。
明治42年7月29日生まれ。大原孫三郎の長男。昭和7年父の経営する倉敷絹織(現クラレ)に入社,14年社長。25年ビニロンの工業化に成功する。倉敷紡績社長,物価庁次長,関西経済同友会代表幹事などを歴任。日本民芸協会会長,大原美術館理事長などをつとめた。昭和43年7月27日死去。58歳。岡山県出身。東京帝大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「大原総一郎」の解説

大原 総一郎 (おおはら そういちろう)

生年月日:1909年7月29日
昭和時代の実業家;社会・文化事業家。倉敷紡績社長;関西経済連合会副会長
1968年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大原総一郎の言及

【大原美術館】より

…近代の西洋絵画が主流をなしているが,古代エジプト美術,ペルシア陶器あるいは中国古美術なども加わって,漸次その規模を拡充している。第2次大戦後の推進者は大原総一郎(1909‐68)で,20世紀の現代美術と日本の近・現代美術の作品が新たに加わり,収蔵作品に通史的な展望をあたえた。同時に,民芸運動の中心的な指導者たちの作品を展示する陶器・板画・染色館を設立。…

※「大原総一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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