ジャーナリスト、評論家。明治23年2月8日長野県北穂高村(現、安曇野(あづみの)市)に生まれる。小学校卒業後、郷里の研成義塾(内村鑑三門下の井口喜源治(いぐちきげんじ)(1870―1938)が創設)に学び、ピューリタニズムの影響を受けた。1906年(明治39)渡米。ホイットウォース・カレッジで政治経済学を学び、のち、シアトル、サンフランシスコの邦字新聞社に勤めた。1920年(大正9)帰国して『中外商業新報』(現『日本経済新聞』)の外務部長となり、中国を訪問、有力政治家の会見記を書いた。1927年(昭和2)『東京朝日新聞』の企画部次長に迎えられたが、著書『自由日本を漁(あさ)る』(1929)のなかの「甘粕(あまかす)と大杉の対話」がもとで右翼の攻撃を受けた。これを機に1929年フリーの評論家に転じ、1930年『中央公論』特派員としてロンドン軍縮会議を報道。1938年『東洋経済新報』評議員となり、石橋湛山(たんざん)と交友を結び、1939年、三木清、嶋中(しまなか)雄作らと国民学術協会を結成、第二次世界大戦直前に『第二次欧州大戦の研究』(1940)などを刊行。清沢は内村の影響を受け、リベラルな自主独立の評論家として生涯、筋を貫いた。その強さは戦時中の日記(戦後『暗黒日記』として刊行)に余すところなく現れている。終戦直前の昭和20年5月21日、急性肺炎で死去。
[高須正郎]
『橋川文三編・解説『暗黒日記』(1979・評論社)』
大正・昭和期のジャーナリスト,外交評論家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
外交評論を中心としたジャーナリスト。長野県生れ。内村鑑三門下の井口喜源治の教える研成義塾に学び,1906年に渡米し苦学してホイットウォース大学を卒業。20年帰国して《中外商業新報》に就職し外事報道関係で活躍,その後27-29年《東京朝日新聞》企画部次長となる。30年ロンドン軍縮会議の報道に従事し,同年《報知新聞》論説委員となり,38年《東洋経済新報》の顧問となる。37年以降は日中全面戦争や日米戦争に反対する立場に立ち,戦時下にも反軍部の姿勢を貫いた。学歴によらず筆によって生きようとした,気骨ある自由主義ジャーナリストであった。《暗黒日記》がある。
執筆者:赤沢 史朗
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1890.2.8~1945.5.21
大正・昭和前期のジャーナリスト・外交史家。長野県出身。キリスト教無教会派の研成義塾(長野県安曇野市)に学び,1906年(明治39)渡米。苦学してホイットウォース大学を卒業,邦字紙で活躍する。帰国して20年(大正9)「中外商業新報」,27年(昭和2)「朝日新聞」の記者となるが,29年右翼の攻撃をうけ退社。その後「報知新聞」「東洋経済新報」と関係し,国際協調外交を唱える。「外交史」など著書多数。没後,第2次大戦中の42~45年の日記「暗黒日記」が刊行された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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