関白(かんぱく)九条兼実(くじょうかねざね)の日記。「玉海(ぎょくかい)」ともいう。66巻。ほかに柳原本1巻。記事は1164年(長寛2)から1203年(建仁3)まで、兼実16歳から55歳までにわたる。兼実は関白忠通(ただみち)の第3子。兄近衛基実(このえもとざね)、松殿基房(まつどのもとふさ)とともに政治家としての道を選んだ。日記の記事内容は、平氏全盛期20年間の右大臣時代、鎌倉幕府と提携の10年間の執政時代、その後の7年に及ぶ隠棲(いんせい)の時期に大別できる。記すところは、公・武の政治、摂関家の動向、朝儀をはじめ、世上の見聞、身辺の事情などきわめて多彩である。公・武政権対立の波瀾(はらん)の時代の姿が、時代の立役者たる平清盛(きよもり)、源義仲(よしなか)・義経(よしつね)・頼朝(よりとも)などの描写を通じてよくうかがわれ、公家(くげ)文化の長い伝統と武家時代の新しい曙光(しょこう)とが交錯する世界を的確、明晰(めいせき)な叙述でとらえており、質・量において公家日記の白眉(はくび)とされている。『国書刊行会叢書(そうしょ)』所収。
[多賀宗隼]
『星野恒著『歴世記録考 玉葉』(『史学叢説 第一集』1909・冨山房)』▽『龍粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社)』▽『杉山信三著『藤原氏の氏寺とその院家』(1968・吉川弘文館)』▽『多賀宗隼著『玉葉索引――藤原兼実の研究』(1974・吉川弘文館)』
九条兼実の日記。原本は伝わらないが,1164年(長寛2)から1203年(建仁3)までの部分が写本によって伝えられている。そのうち1200年(正治2)までの分は国書刊行会から刊行され(1906),1201年(建仁1)正月,2月および1203年(建仁3)正月の断簡は多賀宗隼編著《玉葉索引》(1974)に付録として収められている。兼実が平安末期から鎌倉初期にかけて朝廷の枢要な地位にあった人だけに,彼の日記は当時の政治の動きを知るための第一級史料であるが,記述がきわめて詳細であることはその価値をいっそう高からしめている。とくに平氏の台頭から独裁化への過程,その間の平氏・後白河院の対立抗争,反平氏勢力の増大,源氏蜂起に始まる治承・寿永の内乱の様相,源義仲の入京と没落,平氏族滅と源頼朝の対朝廷策等々を知る上で《玉葉》は最高の史料的価値をもつといってよい。また,兼実の教養・趣味・関心の広さから,政治の面のみならず,当時の習俗・学芸・故実等々を知る上での好史料となっている点も注目される。《玉葉》という名称は兼実の父忠通の日記が《玉林》と称せられたことによるといわれる。なお,本日記は二条家では《玉海》と称せられていた。
執筆者:新田 英治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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「玉海」「後法性寺関白記」とも。九条兼実(かねざね)の日記。1164~1203年(長寛2~建仁3)の間,まったく記事を欠く年は2年間のみ。平氏の最盛期から源平内乱期をへて鎌倉幕府成立期に至る記述は,きわめて詳しく描写力に富み,批判や感想を加えるとともに,自身の発したものも含め文書・書状などを多く載せる。政治・社会・朝儀・宗教など多方面からの当時の第一級史料。九条家旧蔵の古写本50冊は宮内庁書陵部蔵。刊本「玉葉」。なお刊本未収録の建仁元年正月・2月と同3年正月の分は「玉葉索引」に収載。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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