生駒氏(読み)いこまうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「生駒氏」の意味・わかりやすい解説

生駒氏
いこまうじ

出羽国(でわのくに)(秋田県)矢島(やしま)藩主。大和国(やまとのくに)生駒庄(しょう)(奈良県生駒市)の出身といわれ、室町後期家広(いえひろ)のとき尾張国(おわりのくに)(愛知県)へ移ったという。その後親正(ちかまさ)は織田信長豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、1585年(天正13)近江国(おうみのくに)高島郡(滋賀県高島市)2万3000石を領した。さらに、秀吉の九州征服後、讃岐(さぬき)(香川県)一国を賜い6万1000石を領して高松城を築き居城する。豊臣家三中老の一人とされ、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に出陣。また秀頼(ひでより)の補佐役としても重きをなす。関ヶ原戦いでは親正の子一正(かずまさ)は東軍に、孫正俊(まさとし)は西軍にそれぞれ参陣した。役後一正は17万石に加増されている。1640年(寛永17)正俊の子高俊(たかとし)のとき、家臣の対立から「生駒騒動」とよばれる内紛が起こり、領地没収され、出羽国矢島(由利本荘(ゆりほんじょう)市)1万石に転封となった。のち封地分封したため旗本となり、交代寄合衆(こうたいよりあいしゅう)として幕末に至った。1868年(明治1)親敬(ちかゆき)は新政府に忠誠を誓い矢島藩1万5000石を興こし、廃藩置県後、男爵に列せられた。

橋詰 茂]


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改訂新版 世界大百科事典 「生駒氏」の意味・わかりやすい解説

生駒氏 (いこまうじ)

近世武家。元来は大和生駒庄に住み,戦国期に尾張へ,さらに美濃に移ったという。生駒親正のとき織田信長,豊臣秀吉に仕え,讃岐高松城主(17万石余)。関ヶ原の戦で親正は西軍に属したが,子一正は東軍につき,父の遺封を継ぐ。その孫高俊のとき,生駒騒動が起こり,出羽矢島1万石に転封。のち,その2子が交代寄合となり,幕末に至る。1868年,親敬は維新の功により1万5000石に加増された。のち男爵。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「生駒氏」の意味・わかりやすい解説

生駒氏
いこまうじ

江戸時代の外様大名。藤原姓。藤原良房は大和生駒に山荘を営み,そこに住した子孫が生駒氏を称したという。戦国時代には,生駒家広が尾張国丹羽郡に移住し,親正のとき,豊臣秀吉に仕え,天正 13 (1585) 年,近江高島2万 3000石を領した。のち伊勢,播磨,讃岐と移り,関ヶ原の戦いの功によって 17万石余に加増されたが,いわゆる生駒騒動の結果,寛永 17 (1640) 年,出羽国由利郡矢島1万石に封じられ,明治にいたって子爵。

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世界大百科事典(旧版)内の生駒氏の言及

【讃岐国】より

…親正は香川郡野原荘の海浜に高松城を,また西讃の支城として那珂郡亀山に丸亀城を築いた。生駒氏は検地の実施,高松城下の整備,干ばつの被害を防ぐために満濃池をはじめとする溜池の修築造などを行ったが,高松藩代藩主高俊の1640年(寛永17)に家臣の対立に端を発した御家騒動(生駒騒動)がおこり,出羽矢島1万石に改易された。そのあとには41年西讃岐に山崎家治が,翌年には東讃岐に三家の水戸家の出である松平頼重が入り,それぞれ丸亀城,高松城を居城とした。…

※「生駒氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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