平安前期の官人。染殿大臣,白河殿とも称された。藤原冬嗣の二子で母は尚侍藤原美都子(大庭女王との説もある)。父のあとをうけて藤原北家への廟堂の権力の集中を積極的におしすすめた。814年(弘仁5)父冬嗣とともに嵯峨天皇の殊寵をえ,皇女潔姫を降嫁され,826年(天長3)には蔵人となり,以降中判事,大学頭などを経て,仁明天皇即位にともなって蔵人頭となり,834年(承和1)には31歳で参議となった。故冬嗣の影響もさることながら,本人の政治的力量と嵯峨上皇の信任や妹順子の入内などもあって急速に勢力をもつにいたり,翌年には権中納言,842年嵯峨上皇の死を契機に起こった承和の変では順子の生んだ道康親王(文徳天皇)を皇太子とすることに成功し,大納言に昇進して,848年(嘉祥1)には右大臣兼皇太子傅となった。850年仁明天皇が没し文徳天皇が即位すると外戚としての立場になり,また天皇と娘明子(あきらけいこ)との皇子惟仁親王を生後8ヵ月で立太子させたが,これは先例のない事態であった。857年(天安1)2月に良房は太政大臣となったが,これは令制の太政大臣とともに令制前の太政大臣の地位をも継承していたようで,実際には関白にふさわしい地位であった。翌年文徳天皇の死で清和天皇が9歳で即位し,良房は太政大臣として実際には摂政としての機能をもった。864年(貞観6)正月に15歳の天皇が元服し,866年に応天門の変で足場をかためた良房は,天皇の〈天下の政を摂行せしむ〉との詔をえて摂政となった。これが人臣摂政の初例であるが,当時はまだ後世のように官職として定立していたわけではなく,天皇に代わって政務を行うという行為を示すにすぎない。871年に准三宮となり随身の兵仗や封戸が加増されたが,翌年9月に没した。正一位を追贈され,忠仁公と諡(おくりな)され美濃国に封ぜられた。その生涯は,先例よりも機会に乗じて一門への権力の集中に努めるという方向性が強い。なお《続日本後紀》の編纂に参画した。
執筆者:佐藤 宗諄
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平安前期の官僚。人臣最初の摂政(せっしょう)。冬嗣(ふゆつぐ)の第二子で、母は尚侍(ないしのかみ)藤原美都子(みつこ)(大庭(おおば)女王ともいう)。初代の蔵人頭(くろうどのとう)として嵯峨(さが)天皇の信任を得て栄達した父の後を継いで、藤原北家の権力基盤をつくりあげた。814年(弘仁5)に嵯峨天皇より皇女潔姫(きよひめ)を降嫁され、蔵人、中判事(ちゅうはんじ)、大学頭(かみ)などを経て、仁明(にんみょう)天皇の即位に伴って蔵人頭、ついで834年(承和1)に31歳で参議となる。本人の政治的力量とともに、父母の勢力や妹順子(じゅんし)の入内(じゅだい)など、嵯峨(太上)天皇の信望が大きな影響を与えたらしい。842年の嵯峨上皇の死を契機にした承和(じょうわ)の変では、順子の産んだ道康(みちやす)親王(後の文徳(もんとく)天皇)の立太子に成功し、自らも大納言(だいなごん)に進んだ。848年(嘉祥1)右大臣兼皇太子傅(ふ)となり、翌々年に仁明天皇が没すると、文徳天皇が即位して外戚(がいせき)となり、天皇と女明子(あきらけいこ)との間に誕生した惟仁(これひと)親王(後の清和(せいわ)天皇)を生後8か月で皇太子にするという前例のない事態を生み出した。
857年(天安1)太政(だいじょう)大臣となったが、実際には摂関に近い存在であったらしい。翌年文徳天皇が没して9歳の清和天皇が即位し、良房は太政大臣としての任務を遂行した。この幼帝の出現は藤原北家の政治支配の形成を画する事件であり、良房政権の完成を示す。6年後に天皇が元服すると、翌々年(866)には応天門の炎上事件に乗じて伴善男(とものよしお)を失脚させ、自らは「摂政」となった。これは「天下の政を摂行せしむ」というように、天皇にかわってその政務を行うという行為・権能を示すもので、官職ではない。871年(貞観13)に准三后(じゅさんごう)となったが、翌年9月2日に没した。正(しょう)一位・忠仁公(ちゅうじんこう)が贈られ、美濃(みの)国に封ぜられた。この時代に藤原一門への権力の集中と、天皇との基本的な関係が形成され、「前期摂関政治」とも称される。なお『続日本後紀(しょくこうき)』の編纂(へんさん)に参画している。
[佐藤宗諄]
(瀧浪貞子)
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804~872.9.2
平安前期の公卿。藤原冬嗣の次男。母は藤原美都子(大庭(おおば)女王とも)。白河殿・染殿(そめどの)と称される。諡号は忠仁公。嵯峨天皇に才能を認められ,皇女源潔姫(きよひめ)と結婚。833年(天長10)仁明天皇の即位とともに蔵人頭(くろうどのとう)。834年(承和元)参議。翌年,従三位権中納言となる。842年承和の変で藤原愛発(あらち)にかわって大納言につき,妹順子が生んだ道康親王(文徳天皇)を皇太子に立てた。848年(嘉祥元)右大臣。850年文徳天皇が即位すると,女明子(あきらけいこ)の生んだ惟仁親王(清和天皇)を皇太子に立てる。857年(天安元)人臣としてははじめて生前に太政大臣となる。翌年清和の即位と同時に人臣最初の摂政になったともいうが,これは,866年(貞観8)の応天門の変に際して下された,「天下の政を摂行せよ」との勅に由来しており,清和即位時に後世と同じような摂政になったか否かは不明。死後は正一位を贈られ美濃国に封じられるなど,特別な待遇をうけた。後継者の基経は養子(兄長良(ながら)の三男)。
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…事件の発端はこの年閏3月10日夜に朝堂院の正門である応天門が炎上したことであった。最初大納言伴善男(とものよしお)は左大臣源信の所業としてその処罰を主張したが,太政大臣藤原良房らの工作で無実が明らかになった。ところが8月3日に左京の備中権史生大宅鷹取が伴善男・中庸父子が真犯人であると告げた。…
…健岑らが上皇死後の混乱に乗じて,皇太子恒貞親王(つねさだしんのう)を奉じて東国に赴いて乱を起こそうとしている,というのである。密告をうけた橘嘉智子は中納言藤原良房にひそかに伝え,先のような軍事行動となったのである。しかし,健岑,逸勢の2人は容易に罪状を認めず,拷問により,捕縛後10日ほどして,健岑は隠岐国,逸勢は非人として伊豆国に遠流とされた。…
…仁明天皇1代,833年(天長10)から850年(嘉祥3)にいたる18年間の歴史を記す。文徳天皇の命により,藤原良房,春澄善縄らが編纂にあたり,清和天皇の869年(貞観11)に完成奏上。以前の国史の体裁を追いながらも,天皇1代の実録としての性格を強めており,記事詳密,体裁も整備されている。…
…とくに967年(康保4)冷泉天皇の践祚後まもなく藤原実頼が関白となってから,1068年(治暦4)後三条天皇が皇位につくまでの約100年間の政治形態をいう。 推古天皇のとき聖徳太子が,また斉明天皇のとき中大兄皇子が摂政となって執政したといわれるが,人臣にして摂政となったのは藤原良房に始まり,関白はその養嗣子基経に始まる。律令体制の成立と推進に中心的な役割を果たしてきた藤原氏は,平安時代初頭にはすでに〈累代相い承け摂政して絶えず〉(《日本紀略》)との理由で,他氏に優越した地位を認められていた。…
…古代における摂政の確実な例は,推古天皇の皇太子厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子),斉明天皇の皇太子中大兄皇子,天武天皇の皇太子草壁皇子の3例で,いずれも皇太子が天皇に代わって万機を摂行し,皇太子摂政ともいう。これに対し人臣摂政は,866年(貞観8)清和天皇の外祖父藤原良房が補任されたのに始まる。ついで陽成天皇が9歳で践祚すると良房の嗣子基経が摂政に補任され,天皇在位中その任にあった。…
…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家,二条家,一条家,九条家,鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…
※「藤原良房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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