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藤原良房 ふじわらのよしふさ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原良房
ふじわらのよしふさ

[生]延暦23 (804).京都
[没]貞観14 (872).9.2. 京都
平安時代前期の廷臣。通称,染殿,白河殿。藤原冬嗣の二男。母は阿波守藤原真作の娘美都子。弘仁5(814)年 11歳で皇女潔姫を妻に迎えた。天長3(826)年蔵人。その後,蔵人頭,参議,中納言,承和6(839)年には陸奥出羽按察使にまで昇進。同 9年淳和上皇の崩御を機としていわゆる承和の変を起こし,名族大伴氏,橘氏の勢力をそぐとともに道康親王の立太子を実現した。同 15年右大臣。嘉祥3(850)年仁明天皇が崩じ皇太子道康親王が践祚して文徳天皇となった。これに先立って良房は娘明子を皇太子妃としており,同 3年明子に皇子惟仁親王(のちの清和天皇)が生まれると,これを皇太子に定めた。仁寿4(854)年左大臣源常(みなもとのときわ)の没後は右大臣のまま廟堂の首班の地位を占め,天安1(857)年太政大臣,従一位。これは皇子以外では初めての太政大臣(大師,太政大臣禅師を除く)である。翌 2年清和天皇が即位すると,外祖父である太政大臣として政務を行なった。貞観6(864)年天皇の元服後,同 8年応天門の変で大納言伴善男を中央政界から追い藤原氏の覇権を確立すると,万機摂行の詔を受け,人臣として初めての摂政となった。没後正一位を贈られ,忠仁公と諡(おくりな)された。

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百科事典マイペディアの解説

藤原良房【ふじわらのよしふさ】

平安前期の高官。冬嗣(ふゆつぐ)の子。通称白河殿,染殿大臣(そめどののだいじん)。842年の承和(じょうわ)の変で伴(とも)・橘両氏の勢力に打撃を与え,妹順子(じゅんし)の産んだ道康親王を即位させて文徳(もんとく)天皇とし,さらにその妃であった娘明子(めいし)の産んだ惟仁(これひと)親王を皇太子とし,857年人臣最初の太政大臣に進み,858年皇太子は即位して清和天皇となった。
→関連項目続日本後紀摂政源融

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原良房 ふじわらの-よしふさ

804-872 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
延暦(えんりゃく)23年生まれ。北家藤原冬嗣(ふゆつぐ)の次男。母は藤原美都子(みつこ)。承和(じょうわ)元年(834)参議。15年右大臣,天安元年(857)太政大臣,貞観(じょうがん)8年人臣初の摂政となる。承和の変,応天門の変で地位をかため,文徳天皇,清和天皇の外戚(がいせき)として権勢をふるった。「続日本後紀」の編修主宰者。貞観14年9月2日死去。69歳。贈正一位。通称は染殿,白河殿。諡(おくりな)は忠仁公。
【格言など】年経(ふ)れば齢は老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし(「古今和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原良房

没年:貞観14.9.2(872.10.7)
生年:延暦23(804)
平安前期の公卿。人臣最初の摂政。冬嗣と尚侍藤原美都子(阿波守藤原真作の娘)の次男。染殿,白河殿とも。両親とも嵯峨天皇の信任を得ていたことから天長3(826)年蔵人に抜擢され,また見込まれて嵯峨皇女の潔姫を妻にした。承和1(834)年,31歳で参議,翌年には上席者7人を越えて中納言,同15年,45歳で右大臣に任じられた。その間,承和の変(842)では皇太子恒貞親王を廃して妹順子の生んだ道康親王の立太子を実現し,娘の 明子 をその妃とすることで政界への足掛かりを固めている。嘉祥3(850)年道康が文徳天皇として即位すると,第1皇子惟喬親王を押さえて明子が生んだ惟仁親王(第4皇子)を皇太子とする一方,みずからは左大臣を経ずに奈良時代以降絶えていた太政大臣となり(857),翌年,9歳の惟仁(清和天皇)が即位するにおよび事実上の「摂政」となった。正式に任命されたのは貞観8(866)年に起こった応天門事件の最中であるが,追認にすぎない。この事件が発覚するや,伴善男から犯人と名指しされた左大臣源信 の無実を天皇に訴え,ことなきを得ているが(『宇治拾遺物語』『伴大納言絵詞』),良房の巧みな政治行動がうかがわれる。邸宅染殿(平安左京北辺四坊)は桜の名所として知られ,生前これを愛でた仁明天皇追悼の法会(851)をはじめ,しばしば王臣公卿を招いて観桜の歌宴を催し,和歌復興の場となったことが留意される。良房の詠じた「年ふれば齢は老いぬ然はあれど花をしみれば物思ひもなし」(『古今集』)という桜花の歌は,後年,藤原道長のよんだ「望月の歌」と通じるものがある。明子以外に子供がなく,兄長良の子の基経を養子としてこれを抜擢,基経の妹高子も清和の女御として入内させている。流行性感冒がもとで東一条第(平安左京一条三坊)に没し,白河辺に葬られた。忠仁公と諡された。『貞観格式』『続日本後紀』などの編纂にも当たった。

(瀧浪貞子)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのよしふさ【藤原良房】

804‐872(延暦23‐貞観14)
平安前期の官人。染殿大臣,白河殿とも称された。藤原冬嗣の二子で母は尚侍藤原美都子(大庭女王との説もある)。父のあとをうけて藤原北家への廟堂の権力の集中を積極的におしすすめた。814年(弘仁5)父冬嗣とともに嵯峨天皇の殊寵をえ,皇女潔姫を降嫁され,826年(天長3)には蔵人となり,以降中判事,大学頭などを経て,仁明天皇即位にともなって蔵人頭となり,834年(承和1)には31歳で参議となった。故冬嗣の影響もさることながら,本人の政治的力量と嵯峨上皇の信任や妹順子の入内などもあって急速に勢力をもつにいたり,翌年には権中納言,842年嵯峨上皇の死を契機に起こった承和の変では順子の生んだ道康親王(文徳天皇)を皇太子とすることに成功し,大納言に昇進して,848年(嘉祥1)には右大臣兼皇太子傅となった。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのよしふさ【藤原良房】

804~872) 平安前期の廷臣。冬嗣の子。通称、白河殿・染殿。諡号しごう忠仁公。857年文徳天皇の時、人臣初の太政大臣となり、応天門の変後摂政に就く。「続日本後紀」の撰修に参加。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原良房
ふじわらのよしふさ
(804―872)

平安前期の官僚。人臣最初の摂政(せっしょう)。冬嗣(ふゆつぐ)の第二子で、母は尚侍(ないしのかみ)藤原美都子(みつこ)(大庭(おおば)女王ともいう)。初代の蔵人頭(くろうどのとう)として嵯峨(さが)天皇の信任を得て栄達した父の後を継いで、藤原北家の権力基盤をつくりあげた。814年(弘仁5)に嵯峨天皇より皇女潔姫(きよひめ)を降嫁され、蔵人、中判事(ちゅうはんじ)、大学頭(かみ)などを経て、仁明(にんみょう)天皇の即位に伴って蔵人頭、ついで834年(承和1)に31歳で参議となる。本人の政治的力量とともに、父母の勢力や妹順子(じゅんし)の入内(じゅだい)など、嵯峨(太上)天皇の信望が大きな影響を与えたらしい。842年の嵯峨上皇の死を契機にした承和(じょうわ)の変では、順子の産んだ道康(みちやす)親王(後の文徳(もんとく)天皇)の立太子に成功し、自らも大納言(だいなごん)に進んだ。848年(嘉祥1)右大臣兼皇太子傅(ふ)となり、翌々年に仁明天皇が没すると、文徳天皇が即位して外戚(がいせき)となり、天皇と女明子(あきらけいこ)との間に誕生した惟仁(これひと)親王(後の清和(せいわ)天皇)を生後8か月で皇太子にするという前例のない事態を生み出した。
 857年(天安1)太政(だいじょう)大臣となったが、実際には摂関に近い存在であったらしい。翌年文徳天皇が没して9歳の清和天皇が即位し、良房は太政大臣としての任務を遂行した。この幼帝の出現は藤原北家の政治支配の形成を画する事件であり、良房政権の完成を示す。6年後に天皇が元服すると、翌々年(866)には応天門の炎上事件に乗じて伴善男(とものよしお)を失脚させ、自らは「摂政」となった。これは「天下の政を摂行せしむ」というように、天皇にかわってその政務を行うという行為・権能を示すもので、官職ではない。871年(貞観13)に准三后(じゅさんごう)となったが、翌年9月2日に没した。正(しょう)一位・忠仁公(ちゅうじんこう)が贈られ、美濃(みの)国に封ぜられた。この時代に藤原一門への権力の集中と、天皇との基本的な関係が形成され、「前期摂関政治」とも称される。なお『続日本後紀(しょくこうき)』の編纂(へんさん)に参画している。[佐藤宗諄]

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世界大百科事典内の藤原良房の言及

【応天門の変】より

…事件の発端はこの年閏3月10日夜に朝堂院の正門である応天門が炎上したことであった。最初大納言伴善男(とものよしお)は左大臣源信の所業としてその処罰を主張したが,太政大臣藤原良房らの工作で無実が明らかになった。ところが8月3日に左京の備中権史生大宅鷹取が伴善男・中庸父子が真犯人であると告げた。…

【承和の変】より

…健岑らが上皇死後の混乱に乗じて,皇太子恒貞親王(つねさだしんのう)を奉じて東国に赴いて乱を起こそうとしている,というのである。密告をうけた橘嘉智子は中納言藤原良房にひそかに伝え,先のような軍事行動となったのである。しかし,健岑,逸勢の2人は容易に罪状を認めず,拷問により,捕縛後10日ほどして,健岑は隠岐国,逸勢は非人として伊豆国に遠流とされた。…

【続日本後紀】より

…仁明天皇1代,833年(天長10)から850年(嘉祥3)にいたる18年間の歴史を記す。文徳天皇の命により,藤原良房,春澄善縄らが編纂にあたり,清和天皇の869年(貞観11)に完成奏上。以前の国史の体裁を追いながらも,天皇1代の実録としての性格を強めており,記事詳密,体裁も整備されている。…

【摂関政治】より

…とくに967年(康保4)冷泉天皇の践祚後まもなく藤原実頼が関白となってから,1068年(治暦4)後三条天皇が皇位につくまでの約100年間の政治形態をいう。 推古天皇のとき聖徳太子が,また斉明天皇のとき中大兄皇子が摂政となって執政したといわれるが,人臣にして摂政となったのは藤原良房に始まり,関白はその養嗣子基経に始まる。律令体制の成立と推進に中心的な役割を果たしてきた藤原氏は,平安時代初頭にはすでに〈累代相い承け摂政して絶えず〉(《日本紀略》)との理由で,他氏に優越した地位を認められていた。…

【摂政】より

…古代における摂政の確実な例は,推古天皇の皇太子厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子),斉明天皇の皇太子中大兄皇子,天武天皇の皇太子草壁皇子の3例で,いずれも皇太子が天皇に代わって万機を摂行し,皇太子摂政ともいう。これに対し人臣摂政は,866年(貞観8)清和天皇の外祖父藤原良房が補任されたのに始まる。ついで陽成天皇が9歳で践祚すると良房の嗣子基経が摂政に補任され,天皇在位中その任にあった。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

※「藤原良房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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