明治期の博物学者,男爵 農商務省農務局長;大日本山林会長;貴院議員(勅選)。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
殖産功労者。長野県飯田(いいだ)の生まれ。1851年(嘉永4)名古屋に出て、伊藤圭介(けいすけ)に師事し、蘭学(らんがく)、本草(ほんぞう)学を学び、1861年(文久1)師とともに江戸に移り、翌年、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に採用された。1866年(慶応2)自ら採集した昆虫標本56箱を持参して、パリの万国博覧会に参加、約10か月パリに滞在して各地の博物館などを視察して帰国、開成所を経て文部省博物局に出仕、ここを本拠として博物館の開設、博覧会の開催を推進指導し、また、リンネ、ド・カンドルの分類学の紹介、『動物学』の編訳など、大学創立前の西欧生物学の導入、普及に寄与した。1898年(明治31)には植物病理研究所の設立を建議した。
[佐藤七郎]
幕末・明治期の植物学者。信州飯田の出身。文明開化期,教育・殖産の発展に貢献。医師の三男として生まれ,1856年伊藤圭介に師事して医学・博物学を学ぶ。62年蕃書調所(ばんしよしらべしよ)に出仕後,66年パリでの万国博覧会に出品のため渡仏。明治新政府でも,ウィーン,フィラデルフィアの万国博覧会に派遣され,新知識を吸収した。駒場農学校(1878年創立,東大農学部の前身)や上野の山に博物館,動物園を創設,また公園を作るほか,セイヨウリンゴや田中ビワ(枇杷)を広めた。蔵書約6000冊は東京大学に田中文庫として保存されている。
執筆者:和崎 皓三
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(佐藤達策)
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…4年後宮内省に移管されたが面積は1ha,飼育動物は400点ほどの小規模なものであった。近代化のための文化施設として博物館や動物園が設立されるにあたっては幕末の遣欧使節団に加わった武士たち,なかでも田中芳男らの力に負うところが多い。田中はヨーロッパ各地の動物園を視察しているが,わけてもパリのジャルダン・デ・プラントのメナジュリーménagerie(動物飼育展示場)から多くを学んだと思われる。…
…この品種は在来のビワに比べて果実が大きく品質がよいため,明治の初期以降しだいに近隣に普及し,長崎県茂木地方で栽培が盛んになり,同地方は現在でも茂木ビワの特産地となっている。一方,茂木と並び称される大果品種の田中は1879年に田中芳男が長崎から種子を東京にもち帰って播種(はしゆ)し,その実生中から選抜,育成したものである。これも,もとは中国系のビワである。…
※「田中芳男」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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