高島秋帆(読み)タカシマシュウハン

デジタル大辞泉 「高島秋帆」の意味・読み・例文・類語

たかしま‐しゅうはん〔‐シウハン〕【高島秋帆】

[1798~1866]江戸後期の兵学者・砲術家。日本近代砲術の祖。長崎の人。名は舜臣きみおみ通称、四郎太夫。オランダ人蘭学・兵学・砲術を学び、高島流創始ペリー来航を機に講武所砲術指南役となる。

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精選版 日本国語大辞典 「高島秋帆」の意味・読み・例文・類語

たかしま‐しゅうはん【高島秋帆】

  1. 江戸後期の砲術家。長崎の人。名は茂敦。字(あざな)は舜臣(きみおみ)。通称糾之丞(ただのじょう)、四郎太夫。蘭学、兵学を学んで大砲鋳造を行ない、日本最初の西洋砲術である高島流を創始した。寛政一〇~慶応二年(一七九八‐一八六六

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朝日日本歴史人物事典 「高島秋帆」の解説

高島秋帆

没年:慶応2.1.14(1866.2.28)
生年:寛政10(1798)
幕末の砲術家,洋式兵学者。高島流砲術の創始者。諱を茂敦。字は舜臣,子厚。通称は糾之丞,四郎太夫。秋帆は号。長崎町年寄を勤める傍ら出島砲台を受け持った四郎兵衛茂紀の3男として長崎に生まれる。父から荻野流,天山流砲術を学んだが,長足の進歩を遂げつつある洋式砲術とは隔絶した差のあることを知り,通詞(通訳)にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり,出島砲台の責任者であったことから,オランダ人に疑問を直接問いただすなどしてヨーロッパの軍事技術に関する知識を修得した。また町年寄の特権である脇荷貿易によって各種の火器やオランダ兵学書を買い求め,天保5(1834)年ごろにはこれらの成果を基に高島流砲術,洋式銃陣を教授するようになった。アヘン戦争(1839)に関する情報に大きな衝撃を受け,天保11年西欧列強のアジア侵略から日本を防衛するために洋式砲術を採用すべきだとする意見書を江戸幕府に提出した。翌年幕命により江戸に出て,5月9日徳丸ケ原(東京都板橋区)で日本最初の洋式砲術演習を行った。これにより幕府の高島流砲術採用が決まり幕臣江川太郎左衛門,下曾根金三郎のふたりに高島流を皆伝して長崎に帰ったところが,かねてから蘭学を蛇蝎のごとく嫌っていた幕府町奉行鳥居耀蔵によって天保13年謀反の罪を着せられ,投獄される。その後ペリーの来航など世情も大きく変化したこともあって,幽囚10年の嘉永6(1853)年に赦免となり,江川太郎左衛門の許に身を寄せ,通称を喜平と改める。安政2(1855)年には普請役に任ぜられ,鉄砲方手付教授方頭取を命じられ,次いで安政4年富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤め,現職にあって没す。「火技中興洋兵開基」と称えられ,日本の軍事近代化に大きな足跡を残した。

(所荘吉)

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改訂新版 世界大百科事典 「高島秋帆」の意味・わかりやすい解説

高島秋帆 (たかしましゅうはん)
生没年:1798-1866(寛政10-慶応2)

幕末の長崎会所調役頭取で砲術家。名は茂敦,通称は四郎太夫,秋帆は号。長崎防備のため,はじめ荻野流砲術を学び,のち出島のオランダ人から西洋砲術を学んで,これを高島流砲術と名づけた。西洋近代砲術を最初に紹介したものといえる。アヘン戦争が起こった1840年(天保11),幕府に上書して西洋砲術の採用を説いた。翌年幕命で出府し,徳丸ヶ原で操練を行い,名声を得た。幕府は高島流砲術を採用することとし,彼の所持する大砲を購入し,あわせて代官江川太郎左衛門に砲術の伝授を命じた。これ以後,西洋砲術は江戸では江川を中心にして普及した。他方,秋帆は幕府の守旧派勢力の忌むところとなり,ついに42年10月投獄された。しかしペリー艦隊の来航により赦免され,江川の下で鋳砲に従事し,のち56年(安政3)講武所砲術師範に挙げられ,幕府の軍事近代化に寄与した。
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百科事典マイペディア 「高島秋帆」の意味・わかりやすい解説

高島秋帆【たかしましゅうはん】

幕末の洋式砲術家。通称四郎太夫。もと長崎会所調役頭取。はじめ荻野流砲術,のち出島のオランダ人から洋式砲術を学ぶ。1840年アヘン戦争に刺激されて洋式砲術採用を幕府に上申,江川太郎左衛門の支持を得て江戸に出,郊外徳丸ヶ原で砲術調練を試み,名声を得た(1841年)。鳥居耀蔵の讒(ざん)にあい下獄。ペリー来航を機に許されて1856年講武所砲術師範となり,幕府の軍制改革に尽力。
→関連項目講武所

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高島秋帆」の意味・わかりやすい解説

高島秋帆
たかしましゅうはん

[生]寛政10(1798).8.15. 長崎
[没]慶応2(1866).1.14. 江戸
幕末の兵学者,砲術家。開国通商派の一人。名,茂敦。通称,四郎太夫。長崎の町年寄兼長崎奉行所鉄砲方の父,茂紀の跡を継ぎ,オランダ式砲術を研究,荻野流砲術の師範役をつとめた。天保 11 (1840) 年のアヘン戦争に触発され,『泰西火攻全書』を著わし,洋式砲術の振興を幕府に進言した。天保 12 (41) 年5月伊豆韮山代官江川太郎左衛門 (英龍) の後援で江戸徳丸ヶ原で洋式砲術の公式実演を挙行,長崎会所調役頭取に栄進。先覚的行為を非難されて翌年投獄されたが,M.ペリー来航とともに許され,安政3 (56) 年幕府の講武所砲術師範役,具足奉行格となった。 (→高島流 )  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高島秋帆」の解説

高島秋帆
たかしましゅうはん

1798~1866.1.14

幕末期の砲術家。父は茂紀。諱は茂敦。通称四郎太夫。長崎町年寄・出島台場受持として荻野流砲術を修め,のち西洋砲術を学び,高島流を創始。1840年(天保11)アヘン戦争の情報が伝わると,上書を幕府へ提出し,洋式砲術の採用を説いた。幕命により,翌年武蔵国徳丸ケ原(とくまるがはら)で洋式銃陣演練を披露し,洋式砲が採用された。流儀は幕臣の下曾根金三郎・江川太郎左衛門英竜などに伝授され,高島流興隆と洋式砲普及の基となった。しかし秋帆自身は鳥居耀蔵(ようぞう)らに嫌疑をかけられて翌年逮捕され,46年(弘化3)武蔵国岡部藩に預けられた。53年(嘉永6)ペリー来航を迎えると江川の尽力で赦免され,55年(安政2)講武所教授方頭取,57年講武所砲術師範役に任じられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高島秋帆」の解説

高島秋帆 たかしま-しゅうはん

1798-1866 江戸時代後期の砲術家。
寛政10年8月15日生まれ。長崎町年寄の父の跡をつぐ。オランダ人から西洋砲術をまなぶ。天保(てんぽう)12年武蔵(むさし)徳丸原(東京都)で洋式銃陣の演習をおこない,江川太郎左衛門英竜(ひでたつ)らに伝授した。安政2年幕臣となり,のち講武所師範役。慶応2年1月14日死去。69歳。名は茂敦。字(あざな)は舜臣(きみおみ)。通称は四郎太夫。
【格言など】只今之急務と仕候処は大砲に御座候(「嘉永上書」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「高島秋帆」の解説

高島秋帆
たかしましゅうはん

1798〜1866
江戸末期の洋式兵学者
長崎の町年寄の家の生まれ。フェートン号事件などで時勢を憂え,オランダ商館長から兵学・砲術を学び,鉄砲を購入し門人に集団教練を実施した。1841年幕府の命により,江戸板橋の徳丸ケ原で洋式訓練・大砲射撃を実演,江川太郎左衛門に砲術を伝授した。翌年幕吏の策謀で幽閉されたが, '53年ペリー来航で再び召出され,洋式砲術を指導,また攘夷の無謀を幕府に建言した。

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367日誕生日大事典 「高島秋帆」の解説

高島秋帆 (たかしましゅうはん)

生年月日:1798年8月15日
江戸時代末期の砲術家;洋式兵学者
1866年没

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世界大百科事典(旧版)内の高島秋帆の言及

【砲術】より

…おもな流派としては,津田流,自由斎流,稲富流,西村流,井上流,一火流,自得流,中島流などがある。江戸時代日本独特の発達をした砲術も,1841年(天保12)江戸の徳丸ヶ原で高島秋帆が行った洋式鉄砲の操練を契機に和流砲術は衰え,西洋砲術となり明治を迎えた。【中林 信二】。…

※「高島秋帆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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