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講武所 こうぶしょ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

講武所
こうぶしょ

江戸時代末期に設けられた幕府の軍事修練所。安政1 (1854) 年,江戸築地に設けられた講武場が同3年講武所と改称され,旗本御家人子弟剣術砲術などを教授した。慶応2 (66) 年,陸軍所の設置に伴って廃止された。勝海舟男谷精一郎高島秋帆らが著名な教授であった。

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デジタル大辞泉の解説

こうぶ‐しょ〔カウブ‐〕【講武所】

安政元年(1854)江戸幕府旗本御家人に、剣術・槍術(そうじゅつ)・砲術などを講習させるために設けた武道場。初め築地鉄砲洲(てっぽうず)に設けられ、のちに神田小川町に移る。慶応2年(1866)陸軍所の設置に伴って廃止。

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百科事典マイペディアの解説

講武所【こうぶしょ】

江戸末期に幕府が列国軍隊の近代的装備に刺激をうけて設けた武術修練所。1854年まず講武場が置かれ,翌年総裁などを任命。1856年江戸築地鉄砲洲(てっぽうず)に施設が完成,正式に開所。
→関連項目阿部正弘海軍伝習所高橋泥舟陸軍奉行

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世界大百科事典 第2版の解説

こうぶしょ【講武所】

江戸末期に幕府が設けた武術修練所。1854年(安政1)開国前後の情勢緊迫化を背景に,老中阿部正弘のもとで設立準備が開始され,まず講武場を設置,翌年2月総裁,頭取などの役員の任命,56年3月築地鉄砲洲の施設完成の後,同年4月講武所として正式に開所された。剣・槍・砲術の各術科の師範役と教授方が置かれ,主として旗本御家人やその子弟の中の有志者に修練を施し,弓術・柔術・水練の教習も併せて行われた。1858年1月深川越中島に講武所付属の銃隊調練場が開設され,60年(万延1)2月講武所は神田小川町の新施設へ移転した。

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大辞林 第三版の解説

こうぶしょ【講武所】

幕末、旗本・御家人およびその子弟を対象に、幕府が設けた武芸調練機関。1854年、江戸築地に講武場として発足。66年、陸軍所に吸収された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

講武所
こうぶしょ

幕末期、江戸幕府が軍制改革の一環として設置した軍事の訓練機関。外圧に対する軍制改革を進めるなかで、幕府は1855年(安政2)講武場を創設して、旗本以下の面々に武芸・砲術をはじめとする軍事訓練を行うことを布告したが、その後、この講武場を講武所と改め、翌56年、築地(つきじ)鉄砲洲(てっぽうず)に講武所を竣工(しゅんこう)させた(のち深川越中島(えっちゅうじま)にも調練場を設置)。開業は同年4月13日。講武所規則覚書を公示し、入所手続などを定め、将来は陪臣や浪人にも開放するとした。開業には将軍徳川家定(いえさだ)が老中以下を率いて臨み、以後、幕府の武芸・洋式訓練・砲術などが盛んになった。のち鉄砲洲の構内に軍艦操錬所が設けられたため、講武所は60年(万延1)神田小川町に移され、66年(慶応2)11月陸軍所と改称された。教授として、剣術の男谷(おだに)精一郎・伊庭(いば)軍兵衛・榊原鍵吉(さかきばらけんきち)・桃井(もものい)春蔵、槍術(そうじゅつ)の高橋泥舟(でいしゅう)、砲術の下曽根(しもそね)金三郎・高島秋帆(しゅうはん)・勝海舟(かいしゅう)ら当代の大家が選ばれた。[田中 彰]

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