建武の新政(読み)ケンムノシンセイ

デジタル大辞泉 「建武の新政」の意味・読み・例文・類語

けんむ‐の‐しんせい【建武の新政】

建武の中興

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「建武の新政」の解説

建武の新政
けんむのしんせい

1333~35年(元弘3~建武2)に後醍醐天皇により行われた公家一統(天皇の公武統一支配)の政治。天皇の権限の制約を認めず親政を理想とする後醍醐は,1321年(元亨元)院政を廃止。さらに武家政権の否定すなわち鎌倉幕府打倒の計画を進めたが,正中の変・元弘の乱の失敗で隠岐に配流。しかし幕府滅亡により,33年6月,後醍醐は伯耆から帰京し新政に着手。中央に記録所・恩賞方・雑訴決断所・武者所・窪所(くぼどころ)の諸機関を設置。諸国には国司と守護を併置したが,守護の職権を削減し,武士に対する指揮命令権を国司に移管した。大内裏の造営造幣を計画し,また王朝国家の体制であった官職の譜代相伝化を否定する人事断行家格門閥をもたない楠木・名和・結城(ゆうき)氏など一部の腹心を専制支配の手足として重用した。後醍醐は天皇にすべての権限が集中する独裁体制の樹立をめざしたが,現実には個別所領安堵法の撤回,決裁権をもつ雑訴決断所の設置,地方統治機関である陸奥・鎌倉両将軍府の設置など,構想の修正・後退を余儀なくされた。家格や慣例を無視した人事も貴族層の不満をかい,所領政策の失敗や恩賞の不公平は武士層の動揺と反発を招き,地方では反乱が続発。武家政治復活をのぞむ武士層の信望を集めていた足利尊氏が,35年7月におこった中先代(なかせんだい)の乱鎮定のため東下して後醍醐から離反するに及び,新政はわずか3年たらずで崩壊し,南北朝内乱が始まった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「建武の新政」の解説

建武の新政
けんむのしんせい

1334(建武元)〜36(建武3)年にかけて,後醍醐 (ごだいご) 天皇らが鎌倉幕府を倒して行った天皇親政の復古政治
両統迭立 (てつりつ) など幕府の政治干渉に不満をもった後醍醐天皇が公家(北畠親房ら)や得宗専制に不満をもつ有力御家人(足利高(尊)氏・新田義貞ら),地方武士(楠木正成・名和長年ら)などを味方にし正中の変・元弘の変を経て実現。天皇親政の律令政治を理想としたが,現実にそくして公武協調をたてまえとし,中央に記録所・雑訴決断所・恩賞方・武者所を置き,地方には国司と守護を併置した。新政の中心は論功行賞と土地関係の訴訟の処理におかれ,その結果,貴族階級の利益擁護の線の強いことに武士階級は不満を抱いた。また皇居造営などによる課税の増大は農民の不満もまねいた。こうした公武の不和ならびに武士間の反目が深まっていく中で,中先代の乱を機に鎌倉に下った足利尊氏の離反があり,新政は崩壊した。このころの世相は二条河原落書に示されるような不安な状態にあり,政治も朝令暮改の状態で,1336年後醍醐天皇の吉野還幸から動乱の南北朝時代となる。

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