ある一定の地域社会内で認められた家の地位,格式をさす。
日本でこうした家格観念が発生したのは,おそらく平安時代中ごろの中央貴族層の世界でのことと考えられる。それは,古代の律令国家時代には国家官僚の職業として存在していた各種の業務が,この時代からある特定の家柄により代々継承されるようになった風潮の中で,はじめて具体化されたとみることができる。たとえば,法律を家業とする坂上,中原家,文筆の家である菅原家などがそれである。他方,中世社会の担い手である武士領主層の場合については,平安時代の後半(11世紀中ごろ)からの大開発の時代における彼らの所領獲得が,そのきっかけになったとみるべきだろう。彼らは開発領地に本宅を構え,その本宅の地名を名(苗)字にいただき,その一族一門としての団結を固めていったが,その一族一門は,やがてそれぞれの開発所領規模の大きさに応じて,一定の社会的位置づけを地域社会で付与される方向に向かったのである。したがって,中央貴族,武士いずれの場合も,一族一門の生活源たる家業や所領の獲得こそが,家格観念を生み出してくる最大の条件にほかならないが,それはやがて,より有力な人物を主君にいただき,その政治的な保護を受けることにより,さらに安定化する道をたどった。そして,そのような過程を通じて,それぞれ一定の家格を身につけた各一族は,また同じ程度の家格をもつ家(一族)相互間の婚姻をすすめることで,いっそうその家格を強化することができたのである。日本民俗学,社会学の成果によると,日本列島の東半分には,この家格意識をとくに重んじる傾向が強く,西日本では,その傾向が弱いという。しかし,そのような地域的区分が,はたして中世以来のものであるか否かについては,まだなんらの確証も得られていない。
執筆者:鈴木 国弘
戦国時代に下剋上などの社会的な大変動で家格の観念も大きく変わったが,有力諸大名は朝廷に献金して官位を受けたり,将軍の諱(いみな)の1字を与えられたりして,その権力を誇示するのに利用した。江戸幕府が成立すると,1606年(慶長11)武家の官位は将軍の推挙によることとし,11年には武家の官位は員数外としたので,律令の定数とは関係なく自由に奏請することができるようになった。これによって官位を通じて武家の統制が可能になった。そのほか大名,旗本の江戸城内の詰所,大名の城の有無など,いずれも家の格式を表示するものとして考えられるようになる。そのほかにも行列に立てる飾り道具や乗物までが家によって規制されていた。大名の官位の先途が家によってほぼ固まるのは4代将軍家綱時代である。たとえば尾張と紀伊の両徳川家は権大納言従二位,水戸徳川家は権中納言従三位という類である。大名が官位を競望して老中らに贈賄することもあった。江戸城中の詰所は大廊下,溜間,大広間,帝鑑間,柳間,雁間,菊間などの別があり,大廊下には御三家のほか家門も列したこともあるが,外様大名は例外的に列したにすぎない。さらに城郭の有無や領国の範囲により,国持大名,国持並大名,城持,城持並,無城などの別があった。なお官位の先途は幕末にはいちじるしく崩れる。万石以下の幕臣には御目見(おめみえ)以上と以下とがあり,御目見以上を通常旗本,以下を御家人と称した。これは将軍に謁見できるか否かの別であったが,幕府職制上では大きな意味を持っていた。こうして職務に就く上でも個人の才能とはかかわりなく家としての由緒や門閥が重んぜられる弊害を生じたので,幕府では享保年中に足高(たしだか)制を採用してその弊を薄めようとした。諸藩の陪臣でも類似の状況が生じ,家中,徒士(かち),足軽のような身分別はまた家格を示すものとなり,門閥譜代派と軽輩の実力派との間で抗争が生じ,お家騒動に発展したこともある。
庶民においても社会組織が固定するにつれて,家の格式を論ずることが強くなり,単に経済力の強弱にはよらず,その出自や由緒などが家格の上下を示す重要な尺度となった。近世初期の村役人層には戦国期の土豪や地侍または牢人の系譜をひく者が多かったが,それらも家格を構成する要素となった。そのために〈系図知り〉などと呼ばれる系図の偽作者が村々を回ったりした。戦国大名の軍忠状に偽作が多いのも同じ目的で作られたためである。農民間では由緒のほかに,領主との関係も大きな要素となり,領主から苗字帯刀を許されるとか,拝領物があるとかが家格を上げるものとされた。領主はそれを利用して,献金などを命じた。高持百姓と水呑などの差も家格の観念に影響を与えた。宮座などが排他的なのもそれによる。いつの世にも存する名誉心によるところが大きいが,家が権力や職業その他の社会的地位の単位であったから,家格は家柄という言葉で,最も広く表現され,婚姻,座席,服装等まで影響を及ぼしていた。
→家
執筆者:児玉 幸多
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…将軍および世子以下の官位昇進の次第は3代家光時代にその例規が定まり,将軍宣下とともに正二位内大臣となり,のち従一位左大臣に進み,正一位太政大臣を追贈され,世子は従二位権大納言となり右大将を兼ねるのを例とした。御三家,万石以上の大名の官位もその地位の高下,家格によって定まっていて,尾張・紀伊両家の従二位権大納言,水戸家,御三卿の従三位権中納言,加賀前田家の従三位参議を最高とし,以下従五位下まで数等に分かれ,城主格以上の大名は従五位下の国守に叙任されるのを例とした。いわば官位は家格と一体のものとして扱われ,その高下は江戸城中の座席や礼法等の差異にもあらわれた。…
…52年(承応1)には貨幣納・米納の二本立てを廃し,田方は原則として米納に改めた。家臣は伊達家譜代の臣のほか戦国期に大名であった者を含め新規に召し抱え,これを一門,一家,準一家,一族,宿老,着座,太刀上,召出,平士の家格制によって編成した。70年(寛文10)の侍帳によれば,これに組士を加えた士分3746人,足軽以下4670人,計8416人であったが,軍事上重要な場所に大身の家臣を配置し,城,要害,所,在所の4種に格付けた。…
… 老中の呼称が一般的になり,その職掌が制度的に定まるのは3代将軍家光のときである。以後政治的権威の伝統化(家格の成立)にともない,老中になる家柄も2万5000~10万石の譜代大名の家に固定するが,それらは上記2種の〈老〉のいずれかに系譜を引いている。したがって老中は戦時には諸大名からなる軍団をそれぞれ指揮すべきものと,江戸時代を通じて観念されていたのであり,実際にも大坂の陣においては,三河以来の〈老〉である酒井忠世たちと並んで,出頭人型の〈老〉である土井利勝も一つの軍団の指揮を預った例がある。…
※「家格」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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