田原本町(読み)たわらもとまち

日本歴史地名大系 「田原本町」の解説

田原本町
たわらもとまち

[現在地名]田原本町田原本

寺川の西に沿って、田原本村のうちに教行きようぎよう寺の寺内町として形成され、その後交代寄合の平野氏の陣屋町として発展した。

教行寺文書によれば、慶長六年(一六〇一)当時佐味田さみた(現北葛城郡河合町)にあった教行寺(真宗大谷派)の住持顕誓は、田原本村のうちに寺内町を立てる計画を、本願寺に密接な関係をもつ領主平野長泰に願い、翌年町立が許可された。町立にあたって平野氏は、教行寺へ対して、三町四方の諸役免除、年貢は八〇石とする、一町四方は教行寺坊屋敷地として永代寄進、さらに町方支配は教行寺に任せることを約束した。

田原本町
たわらもとちよう

面積:二〇・五九平方キロ

奈良盆地ほぼ中央の低平地にある。東境近くを初瀬はせ川、ほぼ中央を寺川、西に飛鳥川、西境を曾我川が、一部曲折しつつ北流する。町域は古代条里の跡をとどめる。中心の田原本地区は中世には楽田らくでん寺の門前がひらけ、近世には教行きようぎよう寺の寺内町、次いで交代寄合の平野氏の陣屋町として「大和の大阪」などともいわれるほど商業が盛んとなった。

明治二二年(一八八九)の町村制施行で十市郡の田原本村が町制を布き、同郡の一二村が合して平野ひらの村、一一村が合して多村となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「田原本町」の意味・わかりやすい解説

田原本町[町] (たわらもとまち)

奈良県北西部,磯城(しき)郡の町。人口3万2121(2010)。奈良盆地の中央部に位置し,大和川(初瀬川),寺川,飛鳥川などの河川が北流する。条里制の遺構や環濠集落がみられる。江戸時代初期に平野長勝が陣屋を設けて以来,大和川水運の中心地として,また奈良と橿原を結ぶ中街道の宿場町として発展し,陣屋町,問屋町が形成された。古くから米作や野菜園芸が盛んで,一時は大和スイカの産地としても有名であったが,近年都市化の進展で農地の転用,農業人口の減少が著しい。工業は縫製などの軽工業が中心。近鉄橿原線・田原本線が走り,交通が便利で京阪や奈良市方面への通勤者の住宅建設が進んでいる。弥生時代唐古(からこ)遺跡などの遺跡や楽田寺などの古社寺が多い。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田原本町」の意味・わかりやすい解説

田原本〔町〕
たわらもと

奈良県北西部,奈良盆地中部にある町。 1889年町制。 1956年平野,多,都,川東の4村と合体。中心集落の田原本は平野氏の城下町,寺内町として発展。古代の条里制が残り,西の保津に中世の環濠集落がみられる。北部にある弥生時代の唐古遺跡は有名。鏡作神社をはじめ,古社寺も多い。米作のほか野菜,花卉などの園芸農業が行われ,縫製工場が立地。近年は周辺都市部への通勤者も多く,宅地化が進んでいる。近畿日本鉄道橿原線,田原本線,国道 24号線が通る。面積 21.09km2。人口 3万1177(2020)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android