霧山城(読み)きりやまじょう

日本の城がわかる事典 「霧山城」の解説

きりやまじょう【霧山城】

三重県津市(旧一志郡美杉村)にあった山城(やまじろ)。国指定史跡。南北朝時代には伊勢の国司、戦国時代には南伊勢を勢力圏とする戦国大名となった北畠氏の居城。伊勢奥津駅(JR名松線)から東へ約5kmにある北畠顕能(伊勢北畠家初代。霧山城の築城者でもある。北畠親房三男ともいわれるが諸説ある)を祀(まつ)る北畠神社裏山(標高約600m、比高約240m)の山頂付近に築かれていた城である。ふもとの現在北畠神社の境内となっている場所に、北畠氏の平時の居館(多芸(たげ)御所、霧山御所とも)があり、この居館の背後の山上の尾根の先端部に詰の城が築かれ、その先の尾根沿いの山頂に霧山城があった。この北畠氏館(多芸御所)・詰の城・霧山城の3城を含めて多気城ともよばれる。1336年(建武3・延元1)、後醍醐天皇が吉野遷幸をして南朝を立てたころに、北畠親房が南伊勢に入り、田丸城(度会(わたらい)郡玉城(たまき)町)を築き拠点にした。1342年(康永1・興国3)、田丸城は北朝方に攻められ、北畠顕能はこの地に逃れた。このとき、顕能が新たに居館として築いたのが霧山城である。以後、畠山氏は霧山城を含む多気城を拠点として、伊勢北畠氏第8代の具教に至るまで多南伊勢5郡および伊賀国、大和国の宇陀郡を治めた。1569年(永禄12)、城主の北畠具教は、本拠を大河内城(松阪市)に移して尾張の織田信長に対抗した。その後、信長の侵攻を受け、具教は信長の次男信雄を養子(北畠家の嫡子)とすることで和睦した。しかし、1576年(天正4)、信雄は義父・具教を三瀬館(多気郡大台町、三瀬御所とも)で暗殺した。具教が殺害されたことを知った北畠氏の旧家臣は、一門の北畠政成が城主をつとめていた霧山城に続々と集結した。その数は1千余といわれている。同年12月2日、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)・神戸(織田)信孝・関盛信ら織田軍1万5000が霧山城に総攻撃を行ったといわれている。北畠の旧臣は奮戦したが、城主・政成はじめ多くの将兵が討ち死にして落城。その後、廃城となった。山頂付近には霧山城の土塁、堀切などの遺構が残っているほか、城があったことを記した碑が建っている。JR名松線伊勢奥津駅からバス、北畠神社前下車、あるいは同駅前からタクシー。JR名松線比津駅から徒歩約60分、または同駅からタクシーで、約10分(いずれも北畠神社)。北畠神社近くから主郭跡のある山頂部までは1.3kmのハイキングコースが整備されている。登山口から山頂部までは徒歩35~40分。山頂に鐘撞堂と呼ばれる削平地があり、ここを尾根沿いにやや下ったところが、かつて霧山城の主郭のあったところである。

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百科事典マイペディア 「霧山城」の意味・わかりやすい解説

霧山城【きりやまじょう】

多気城

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世界大百科事典(旧版)内の霧山城の言及

【多気城】より

…現三重県一志郡美杉村上多気・下多気に城跡が残る。一名霧山(きりやま)城ともいう。1342年(興国3∥康永1)伊勢国司初代北畠顕能が玉丸(たまる)城から移って拠城に定めた。…

【美杉[村]】より

…また西部を名張川が北流する。山間にありながら伊勢と大和を結ぶ要路にあたり,南北朝期には伊勢国司北畠氏の居城霧山城(多気(たけ)城)が築かれた。上多気・下多気一帯には城下が形成されていたと考えられ,北畠氏の居館は多気御所と呼ばれ,戦国時代末期に織田信長の侵攻により大河内(おかわち)城(現,松阪市)に移るまで,北畠氏の本拠であった。…

※「霧山城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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