1802年3月、ナポレオン戦争中にイギリス・フランス間に結ばれた和約。北フランスのアミアンAmiensで調印された。イギリス首相ピット(小)は1799年に第2回対仏大同盟を提唱し、フランスを海陸から圧迫したが、同年末に統領政府を組織したナポレオンが翌1800年6月オーストリア軍をマレンゴで破り、リュネビルの講和を締結した。残った同盟国のなかでは、ロシアが貿易上の理由でイギリスに経済断交を迫ったため、大同盟の結束が乱れ、イギリス議会の発言も和平論に傾いた。1801年2月強硬派のピット内閣が倒れると、次のアディントン内閣により講和が提唱された。この和約の結果、(1)イギリスはオランダから得たセイロン島、スペインから得たトリニダード諸島を保留するが、他の占領地をすべて返還する、(2)フランスもエジプトをトルコに返し、ポルトガル占領地から撤退し、かつナポリと教皇領を放棄する、(3)マルタ島からは両国ともに手を引く、などが決定された。しかし、平和は3年間しか続かなかったのである。
[金澤 誠]
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ナポレオン戦争中,1802年3月,英仏間に結ばれた和約。イギリスは,旧スペイン領トリニダードと旧バタヴィア共和国領セイロンとを除くほか,フランスとその同盟国から奪った土地をすべて旧主に返還し,フランスは,ポルトガルにその占領地を返し,トルコにエジプトを返し,イオニア7島の独立を認め,マルタ島は聖ヨハネ騎士団に返された。
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…こうした権利義務関係をつくり出す条約を永世中立条約といい,こうしてつくり出された権利義務関係が永世中立である。これを永世中立と呼ぶようになったのは,1802年の英仏講和条約である〈アミアンの和約〉が地中海のマルタ島に与えた地位をさすためにLa neutralité permanente(永世中立)の語を用いたことに始まり,その後15年のウィーン会議が,中立政策をとっていたスイスに対し,同様の地位を与え,これをLa neutralité perpétuelle(永世中立)と呼んだ。その後クラクフ(1815),ベルギー(1831),ルクセンブルク(1867),コンゴ自由国(1885),ホンジュラス(1907),トリエステ(1947),オーストリア(1955)およびラオス(1962)が永世中立国とされた。…
…ナポレオンの独裁の承認といってもよい。1801年,オーストリアとリュネビル条約,ピウス7世と宗教協約を,02年イギリスとアミアンの和約を結んで対外関係を固めるとともに,護民院,立法院から反対勢力を追放し,同年には終身執政となり,執行権を強化した。04年には3年間の検討をへてナポレオン法典を完成する。…
※「アミアンの和約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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