改訂新版 世界大百科事典 「バタビア共和国」の意味・わかりやすい解説
バタビア共和国 (バタビアきょうわこく)
オランダ共和国(ネーデルラント連邦共和国)の崩壊後に成立したオランダの統一国家(1795-1806)。バタビアBataviaの語は,ネーデルラントのライン川北方に住んでいたバタウィ人Batavenの名に由来する。18世紀後半,オランダの知識人,中産階級のあいだに政治・経済の沈滞,保守的な総督,都市貴族の支配に対する不満が高まった。彼らはフランス啓蒙主義の影響を受け,しだいに現状変革(連邦制の廃止と強力な統一国家形成)への志向を強め,広範な反総督陣営を形成した。第4次英蘭戦争(1780-84)の惨敗とそれに続く経済的苦境の中で,反総督派の〈愛国党Patriotten〉は急進化し,武装して軍事訓練を行い,1784年全国的な義勇軍を結成した。不穏な情勢を恐れた総督ウィレム5世(在位1751-95)はハーグから退去したが,87年2万のプロイセン軍の来援で復位し,愛国党の多くはフランスに亡命した。フランス革命が勃発し,南ネーデルラントを占領したフランス軍とフランスに亡命していた愛国党の指導者ダーンデルスHerman Willem Daendels(1762-1818)の率いるバタビア軍団がオランダに進軍すると,愛国党は諸都市でいっせいに蜂起し,ホラント,ユトレヒトの州議会は降伏した。95年ウィレム5世はイギリスに亡命し,ホラント州議会では市民・農民代表が都市貴族を追放し,フランスにならって〈人権宣言〉を発し,身分制議会,総督,国家首席などを廃止した。諸州の議会もこれにならい,ここに約200年続いたオランダ共和国は崩壊した。
翌年憲法制定議会が開催されたが,フランス占領軍に対する反感から革命への熱狂は急速に衰え,復活した都市貴族層が新国家の連邦制を主張すると,ダーンデルスはフランスの支持のもとに連邦主義者を議会から追放して単一国家制の憲法草案を可決させた。州主権の廃止により統一国家が成立し,20歳以上の男子による普通選挙で上下両院のバタビア国民議員が選出され,5人の執政が政務をとった。領主制,ギルド,内国消費税が廃され,東インド会社が解散され,オランダは不徹底ながら封建的諸関係を廃棄して近代社会への道を準備した。しかし,1804年ナポレオンがスヒンメルペンニンクRutger Jan Schimmelpenninck(1761-1825)を国家首席に任命して独裁的権力を与え,事実上バタビア共和国は終わった。06年ナポレオンは弟ルイをオランダ国王に任命し,バタビア共和国はオランダ王国Koninkrijk Hollandとなったが,10年オランダ王国はフランスに合併された。
執筆者:栗原 福也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報