カダフィ(読み)かだふぃ

デジタル大辞泉 「カダフィ」の意味・読み・例文・類語

カダフィ(Muammar Al Qadthafi)

[1942~2011]リビア軍人政治家。遊牧民ベドウィンの子として生まれ、士官学校在学中に民族主義の将校団を結成、1969年にクーデターを起こし、国王を追放。軍事政権を樹立し、最高指導者となった。1979年に公職を退いた後も、実質的な元首として国を指導した。カダフィ大佐の呼び名で知られるが、公式の称号は革命指導者。潤沢な石油収入を背景に欧米に対して強硬な姿勢で臨み、数々のテロへの関与が取り沙汰されたが、2003年以降は協調路線に転じ、2006年には米国との間で国交正常化を果たした。2010年末に始まったアラブ諸国の民主化運動(アラブの春)の波及を受け、2011年2月、カダフィの退陣を求める反政府デモ全土に拡大。リビアが内戦状態に陥る中、同年8月に首都を追われ、政権は崩壊。10月、出身地シルト(リビア中北部にある地中海沿岸都市)に潜伏中、反カダフィ派に発見・拘束された際に死亡した。

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知恵蔵 「カダフィ」の解説

カダフィ

リビアの最高指導者。明確な公職名を持たないため、「カダフィ大佐」と呼称されることが多い。また、激しい言動と数々の奇行から「中東の暴れん坊」「砂漠の狂犬」などの異名を取る。出身地は北部の都市シルトで、イタリアの植民地下にあった1942年、遊牧民カダファ族の子に生まれた。士官学校在学中、汎アラブ主義を唱えたナセル(エジプト大統領)に倣って、革命を志す同友と「自由将校団」を組織。1年間のイギリス軍事留学から帰国後、陸軍大尉に昇進した。69年、イドリス国王の外遊中、同志を率いてクーデターを起こし、無血のまま1日で王制打倒。反欧米、反シオニズムとイスラムへの帰依を訴え、国民を熱狂させた。新政権では革命評議会議長に就任、27歳の若さで事実上の国家元首となった。
カダフィの政治哲学は、資本主義でも共産主義でもない「第三の世界理論」と称される。議会制民主主義や政党政治を全否定し、直接民主制による独自のイスラム国家建設を志向するもので、その詳細は「緑の書」(75年から刊行)に体系化されている。この理念のもと、77年には国名を「社会主義人民リビア・アラブジャマーヒリーヤ」に改め、全国人民会議の総書記に就任した。ジャマーヒリーヤとは「人民共同体」のこと。年に1度開催される、この全国人民会議が国家の最高意思決定機関になっている。ただし、会議のメンバーは地域・職場組織等の代表者であって、投票で選ばれた代議員ではない。最高権力者は人民とうたいながらも、最終的な決定・執行の権限はカダフィにあり、こうした特異な政体と、石油収入を背景にした国民への厚い福祉が、40年以上に及ぶ長期独裁体制を支えている。
外交では、長らく反欧米政策、とりわけ対米強硬路線を展開し、88年にはスコットランド上空でパン・アメリカン航空機を爆破、墜落させた(ロッカビー事件)。これは、81年の米軍によるトリポリ空爆に対する報復と見られる。実際、容疑者としてリビアの情報機関員2名が国際手配された。また、IRA(アイルランド共和軍)分派などの西欧のテロ組織や、アルカイダなどイスラム過激組織への資金・武器供与も取りざたされ、アラブ諸国を含む国際社会から孤立していった。
ところが90年代後半から、一転して軟化、国際協調の道を歩み出す。99年にロッカビー事件の容疑者を引き渡し、国連の制裁解除を引き出した。2003年には核兵器・化学兵器の開発を放棄し、国際原子力機関(IAEA)の査察も受け入れている。こうして西欧諸国との関係を改善する一方、アフリカ諸国にも連帯を働きかけ、02年にはアフリカ統一機構(OAU)の後継としてアフリカ連合(AU)を発足させている。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2011年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カダフィ」の意味・わかりやすい解説

カダフィ
al-Qaddafi, Muammar

[生]1942. スルト近郊
[没]2011.10.20. スルト
リビアの軍人,政治家。最高指導者(在任 1969~2011)。Muammar Khadafy,Moammar Gadhafi,Mu'ammar al-Qadhdhāfīとも表す。ベドウィン族の農民の子として生まれた。1963年リビア大学,1965年陸軍士官学校を卒業。1966年イギリスで軍事訓練を受けたのち,大佐に昇進。1969年9月,軍事クーデターを起こして王政を倒し,革命評議会議長に就任した。国内の外国人を追放し,1973年に外国石油企業を国有化,文化革命を宣言した。『緑の書』The Green Book(1巻,1976,2巻,1980)を著して,西欧型資本主義でもソビエト共産主義でもない,独自のイスラム型社会主義理論「第三の道」に基づく政治を目指した。1977年,全権を掌握する一方で人民直接民主主義体制への移行を宣言。反帝国主義,反シオニズム,アラブ統一の理念に基づいて周辺アラブ各国とめまぐるしい統合の試みを繰り返したが,アラブ各国からはむしろ過激な異端者として敬遠された。また,パレスチナ・ゲリラの過激派のほか,世界各地の過激派グループを支援してきたため,1980年代には国際テロリズム関与の疑いで貿易制裁や軍事攻撃を受け,外交的孤立を招いた。1990年代初頭,国際社会への復帰を目指して欧米に歩み寄り始めた。1999年,リビアが関与したとみられるパンアメリカン航空機爆破事件(1988)の容疑者の身柄引き渡しに応じ,2003年には同事件とニジェール上空での航空機爆破事件(1989)に対する補償金の支払いに合意,国際連合は対リビア制裁を正式に解除した。同 2003年,大量破壊兵器の開発計画放棄も発表した。2011年,2月に発生したデモに端を発した反体制活動が全土に広がり,8月に首都トリポリの政権中枢を反カダフィ派に制圧され,10月20日に逃亡先で捕まり死亡した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カダフィ」の意味・わかりやすい解説

カダフィ
かだふぃ
Muammar Qadhāfī
(1942―2011)

リビアの軍人政治家。リビアではカザーフィないしガザーフィと発音する。中部リビアの町シルテに近い砂漠で遊牧民の子として生まれる。中学時代からナセル思想の影響を受け、ベンガジの士官学校在学中に同期生と自由将校団を組織して革命計画を練った。1965年通信部隊に配属され、翌1966年イギリスで研修を受けた。1969年9月に無血クーデターによって王制を倒して軍事政権をつくり、革命評議会議長、軍最高司令官に就任した。1977年3月、革命評議会を廃止し、全国人民会議書記長に就任したが1979年に辞任した。公式には大統領ではなく革命指導者という称号を用いているが、事実上の実力者・元首として権力を一身に集中し、豊かな石油収入を背景として意欲的な経済開発政策と強硬路線にたつ外交政策を進めた。しかし2003年以降は国際協調路線に変え、米欧やロシアとの関係を強めた。著書に、資本主義でも社会主義でもないという意味での第三の普遍理論を目ざす『緑の書』3巻(1976~1979)がある。

[宮治一雄]

『藤田進訳『緑の書』増補新版(1993・第三書館)』

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