アランダ(読み)あらんだ(その他表記)Aranda

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アランダ」の意味・わかりやすい解説

アランダ
あらんだ
Aranda

オーストラリア先住民の一民族集団。アルンタAruntaともいう。大陸中央部のマクドネル山脈南東の山裾(やますそ)からフィンク川に沿った、半乾燥だが水に恵まれたかなり広い地域に居住。オーストラリア先住民の常として、採集狩猟民としての移動生活を行っていたが、現在は地方都市の周辺で定住生活を営む。全体は五つの亜部族に分かれ、おのおのは異なる方言を用いる。これらの亜部族は、さらに内部でそれぞれのトーテムをもつセクションに分かれ、四分制ないしは八分制の婚姻システムを有する。アランダの人々の婚姻システムおよびトーテミズムは、19世紀の終わりごろより人類学者の注目を浴び、繰り返し議論の対象となってきた。彼らの道具類には比較的豊かな装飾が施されており、なかでも楕円(だえん)形の板ないし石板に刻紋や彩色を施した、トーテム・シンボルとしての聖物であるチュリンガは、同様に人類学者の議論により有名となっている。減少傾向にあった人口も1960年ごろから回復しつつある。

[山本真鳥]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アランダ」の意味・わかりやすい解説

アランダ
Aranda, Pedro Pablo Abarca de Bolea, Conde de

[生]1718.12.18. シエタモ
[没]1798.1.9. エピラ
スペインの政治家,軍人伯爵国王カルロス3世の啓蒙専制政治を代表する政治家の一人。初めプロシアで軍事教育を受け,次いでフランスでダランベール,ボルテール,レナール師の知遇を得,百科全書主義に傾倒した。帰国後,フェリペ5世治世下の軍隊に入り,陸軍元帥としてプロシア式に軍制を改革,バレンシア,アラゴン司令官を歴任した。 1766年カスティリア顧問会議長として政界に入り,カルロス3世の側近となる。スペインのフリーメーソンのグランドマスターとしてポルトガルポンバル侯と協定してイエズス会を追放した (1767) 。農業,工業,商業の振興をはかり,外交面では反イギリス的立場を取り,アメリカの独立を承認した。 73年カルロス3世の支持を失って失脚,フランス大使に左遷された (73~87) 。カルロス4世の即位により 92年首相に就任したがまもなく M.ゴドイに取って代られた。

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改訂新版 世界大百科事典 「アランダ」の意味・わかりやすい解説

アランダ
Conde de Aranda, Pedro Pablo Abarca de Bolea
生没年:1719-98

スペインの政治家。アラゴン地方の貴族出身で,プロイセンで戦略を学んだ。1786年以降,カルロス3世,同4世の下で,スペインの改革運動を推進。鉱物資源のヨーロッパ諸国への輸出を通して,北部工業地帯を中心に一時活況をもたらしたが,懸案農業改革は失敗した。フリーメーソンのメンバーで,教会の特権を廃止したのをはじめ,スペインからイエズス会士を追放(1767)した立役者の一人であった。アメリカの独立戦争ではアメリカを支援し,フランス革命では革命家に好意的な立場をとった。国内政治では,〈アラゴン派閥〉の領袖で,晩年,国王の寵臣ゴドイと対立したが,1794年,敗北して失脚した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアランダの言及

【バンダ】より

… 種間交配も盛んで,ハワイやシンガポールで多くの品種が育成されている。また近縁のアスコセントルムAscocentrum,アラクニス属ArachnisエリデスAerides,レナンテラ属Renantheraなどの間にアスコケンダAscocenda,アランダAranda,レナンタンダRenantandaなどの属間雑種が生まれている。 熱帯系で高温多湿を好むため,日本では冬は最低15℃,湿度70%くらいで栽培する。…

※「アランダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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