イラン立憲革命(読み)イランりっけんかくめい(英語表記)Inqilāb-i Mashrūṭeh

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イラン立憲革命」の意味・わかりやすい解説

イラン立憲革命
イランりっけんかくめい
Inqilāb-i Mashrūṭeh

イランカージャール朝専制打倒のため,1905~11年に行われた市民革命。帝政ロシア干渉で挫折した。 20世紀初頭,カージャール朝は下からの改革の要求をもはや押えることができなくなり,05年にはテヘラン市民による抗議運動がウラマーを先頭に明確な政治目標を掲げるようになった。 06年6~7月には弾圧に抗議した商人,職人がバストを求めてイギリス公館内に避難したり,聖廟にたてこもった。8月5日,国王は余儀なく国民議会招集の勅令を発した。 10月8日国民議会が開会され,08年6月 23日の国王による反革命までの時期を第1次立憲制という。議会には商工業組合の親方が多数選出された。この間にテヘラン,タブリーズなどの都市に商工業組合別,地区別の多数の立憲派組織アンジュマンが結成されて議会を専制側の攻撃から防衛しようとした。この間 07年英露協商が結ばれ,イラン分割を帝国主義両国が相互に承認し合った。 08年6月 23日,ロシアにあと押しされて王朝側は立憲制を打倒するため議会を砲撃し,テヘランに戒厳令を布告した。この専制復活に反対してタブリーズではモジャーヘダーン (市民軍) が武装蜂起し,立憲派の拠点となった。 09年7月 16日レシト市民軍とバフティヤーリー族らが南北からテヘランを攻撃して立憲制を回復した。第2議会は保守対革新が対立した。 11年 12月ロシア軍はモジャーヘダーン側の発砲口実に市内に侵入し,立憲革命に干渉した。ロシア軍はタブリーズ,レシト,マシュハド略奪暴行虐殺を働き,ここにモジャーヘダーンは武装解除された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報