改訂新版 世界大百科事典 「イラン立憲革命」の意味・わかりやすい解説
イラン立憲革命 (イランりっけんかくめい)
1905-11年カージャール朝下のイランにおける政治変動。対外的従属を深める同王朝権力に対する大衆蜂起を通じて,イラン史上初の国民議会Majles-e shūrā-ye mellīと憲法Qānūn-e asāsīとを成立させ,イラン史の重大な画期をつくり出したが,反革命としての英露協商など外国の干渉によって挫折させられた。1905年12月,砂糖価格の急騰を理由にテヘランの砂糖商人が逮捕され処罰を受けたことを不満としてテヘランのバーザールでバスト(一斉閉鎖)が開始された。商人層の反王朝政府活動は,ウラマー層の積極的参加を得て,都市住民の各層を取り込みながら,全国主要都市に波及していった。テヘランでは,タバータバーイー,ベフバハーニーらの有力ウラマーの指導下で大規模な聖域抗議集会が繰り返され,運動は専制estebdād批判から,住民の権利擁護組織〈正義の館`adālat khāne〉の設置,さらに国民議会開設を要求するにいたった。06年6~7月にかけてテヘランのイギリス公使館で抗議集会を行った一万数千人に及ぶテヘラン住民の圧力に屈したモザッファロッ・ディーン・シャーは,8月5日に憲法と議会に関する詔勅を発し,10月7日には史上初の国民議会の開設をみた。六つの階層ṭabaqe別に選出された代表からなる議会は,外国への利権譲渡の阻止,イギリス・ロシアからの借款の拒否,外国人官吏の追放などの方針を打ち出し,19世紀以来従属化の道を歩んできたイラン経済の再建と政治的自立の方向を模索する一方,国民銀行の設立,王族への年金の削減,トゥユール制廃止に関する議案を次々と可決し,また,ベルギー憲法に範を採った憲法を制定した。しかし,07年8月,イギリスとロシアがイラン議会を無視して,イランをおのおのの勢力圏に分割する協定(英露協商)に調印すると,国内の反立憲派の巻返し活動がにわかに活発化した。08年6月23日には,唯一の西欧式部隊であるコサック旅団を擁したモハンマド・アリー・シャーMoḥammad `Alī Shāh(1872-1925,在位1907-09)のクーデタが成功し,議会は解散させられ,立憲派は一時的後退を余儀なくされた(小専制)。これに対し,立憲制擁護・回復の闘いが都市を拠点に全国各地で展開される。とくに地方諸都市で,アンジョマンanjomanは選挙管理委員会から,むしろ立憲派の拠点組織へと成長していったが,そのうち最も強力なアンジョマンを有していたタブリーズでは,最も早く徹底した武装闘争が組織された。その担い手は,商人・職人ギルド,中・下級ウラマー,街区ごとの義俠団体(ルーティー)など住民各層からなる義勇的戦闘集団(モジャーヘダーン)であった。こうして09年7月に回復をみた立憲制も,第2議会内での革新派と穏健派の政争に終始し,11年にはイギリスの黙認を得たロシアの直接的軍事介入によって崩壊した。第1議会を通過した諸法案もほとんど実行に移されることなく終わり,立憲革命が実質的社会変革を伴わなかったと指摘されるゆえんとなっている。
執筆者:八尾師 誠
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