パプアニューギニア(読み)ぱぷあにゅーぎにあ(英語表記)Papua New Guinea

翻訳|Papua New Guinea

共同通信ニュース用語解説 「パプアニューギニア」の解説

パプアニューギニア

日本の南約5千キロに位置する太平洋の島しょ国。オーストラリアの北にあるニューギニア島の東半分と周辺の島々からなり、面積約46万平方キロ、人口は約895万人。液化天然ガス(LNG)などの鉱業や、パーム油、コーヒーといった農林業を主要産業とする。19世紀以降、英国やドイツの保護領となった他、日本軍が太平洋戦争で進駐した時期もある。戦後はオーストラリアの施政下を経て、1975年に独立した。

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精選版 日本国語大辞典 「パプアニューギニア」の意味・読み・例文・類語

パプア‐ニューギニア

  1. ( Papua New Guinea ) ニューギニア島東半分、ニューブリテン島ニューアイルランド島ブーゲンビル島など大小六百余の島からなる国。イギリス連邦内の立憲君主国。銅、コーヒー、ココア、コプラ、木材などを産する。一九七五年独立。首都ポートモレスビー

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パプアニューギニア」の意味・わかりやすい解説

パプア・ニューギニア
ぱぷあにゅーぎにあ
Papua New Guinea

南太平洋、メラネシア西部の国。正称はパプア・ニューギニア独立国Independent State of Papua New Guinea。南緯1~12度、東経143~156度に位置し、ニューギニア島東半部、ニュー・ブリテン島、ニュー・アイルランド島、ブーゲンビル島などを領域とする。面積46万2840平方キロメートル、人口633万1000(2007推定)。首都はポート・モレスビー

[谷内 達]

自然

ニューギニア島東半部は、地質・地形の特色から、南西部、中央高地、北岸の3地域に分けられる。南西部は、地質的にはオーストラリア大陸の延長にあたり、安定した古い基盤の上にフライ川などにより形成された沖積平野が広がっている。沿岸部および川沿いの低地では沼沢地となっている。中央高地は第三紀以降の造山・造陸運動およびそれに伴う火山活動によって形成された脊梁(せきりょう)山脈で、断層、褶曲(しゅうきょく)、火山地形、氷食地形、カルスト地形がみられ、複雑な地形となっている。この脊梁山脈は南東の半島部(オーエン・スタンリー山脈)に延びており、ダントルカストー諸島ルイジアード諸島に至っている。同国最高峰のウィルヘルム山(4509メートル)をはじめ3000メートル以上の高山が連なるが、山間部にはかなり広い河谷平野が発達している。北岸では、セピク川流域およびラム川・マーカム川流域の地溝帯に沖積平野が発達し、セピク川の南側には広大な沼沢地が広がっている。その他の北岸の山地はおもに第三紀後半以降の火山活動により形成されたものである。ニュー・ブリテン島などその他の主要な島々も同様で、とくにニュー・ブリテン島では、火山活動が活発である。トロブリアンド諸島など若干の島はサンゴ島であるが、その数は少ない。

 気候は、高地を除いて国土の大部分が熱帯雨林気候である。国土の大半が森林に覆われ、パプア湾沿岸やセピク川河口付近はマングローブ地帯となっている。海岸部の主要都市の気温は年較差がきわめて小さく、年間を通じて日最高気温が30℃前後、日最低気温が23℃前後で、ほぼ日本の関東以西の真夏程度である。これに対して高地では温暖湿潤気候となり、森林のほかにかなりまとまった草原がみられる。高地の主要都市の気温も年較差が小さく、日最高気温が25℃前後、日最低気温が14℃前後で、ほぼ日本の軽井沢や札幌の真夏程度である。年降水量は、ポート・モレスビー付近など若干の地域を除いて国土の大部分では2000ミリメートル以上で、とくに中央高地の南北両斜面やニュー・ブリテン島の南岸では4000ミリメートル以上、一部では6000ミリメートル以上に達する。年降水量の地域差・季節差は、卓越風向と地形との関係により生ずる。たとえば南東貿易風の卓越する5~10月には、ニュー・ブリテン島南岸やラエは多雨期となるが、ポート・モレスビー、マダン、ラバウルなどは少雨期となる。マダンの年間平均気温は27℃で年降水量は3275.3ミリメートル、少雨期の8月には101.7ミリメートル、多雨期の12月には415.9ミリメートルの降水量がある。

[谷内 達]

歴史

この地域に人が住み始めたのは5万年ほど前と推定されている。6000年ほど前から農耕やブタの飼育が始まり、16世紀ごろにサツマイモが導入されたといわれている。ヨーロッパ人の来航は16世紀に始まる。1526年にはポルトガル人メネセスJ. de Menesesがニューギニア島西部を訪れ「パプア」と命名し、1545年にはスペイン人レテスI. O. de Retesがニューギニア島北岸を航海して「ニューギニア」と命名した。その後19世紀末までにトレス、タスマンダンピア、ブーゲンビル、クック、デュモン・デュルビルJules Dumont D'Urville(1790―1842)、スタンリーOwen Stanley(1811―1850)、モレスビーFairfax Moresby(1786―1877)らによって航海、探検、調査が進められた。

 1884年にドイツがニューギニア島北東部およびビスマーク諸島をドイツ領ニューギニアとして領有し、1899年にはブーゲンビル島などを編入した。ニューギニア島南東部は1884年にイギリス領ニューギニアとなったが1906年にオーストラリアに移管され、「パプア地区」と改称された。第一次世界大戦後、旧ドイツ領ニューギニア(北東部)はオーストラリアによる国際連盟の委任統治領「ニューギニア」となり、第二次世界大戦では日本軍と連合軍との激戦地となった。1946年「ニューギニア」(北東部)は国際連合の信託統治領として引き続きオーストラリアが統治することになったが、1949年にはパプア地区(南東部)と「ニューギニア」(北東部)両地域の行政が統合され、「パプアおよびニューギニア」と改称された。1964年の第1回選挙による議会発足以来、独立への道を歩み、1971年には現国名の「パプア・ニューギニア」に改称し、国旗と国章を制定した。1972年の選挙でパプア・ニューギニア人による政府が生まれ、1973年の内政自治移行を経て1975年9月に独立した。

[谷内 達]

政治

イギリス連邦内の立憲君主国で、イギリス国王を元首とするが、事実上の元首は総督(パプア・ニューギニア人)である。普通選挙によって選出される議会(一院制、109議席で任期は5年。109議席のうち89議席は一般選挙区、20議席は州選挙区から選ばれる)と責任内閣制の政府をもつ議会民主制をとっている。国民同盟、人民行動党、人民向上党、パプア・ニューギニア国民党、人民進歩党、地方人民党、人民民主運動党など多くの政党があり、それぞれ議席をもつが、政党間に政策上の大きな差はなく、連立内閣になることが多いので、政権が交代しても政策の大幅な変更はない。地方行政では19の州と首都地区州の20に区分され、各州に地方政府がある。そのうち北ソロモンでは1988年にブーゲンビル革命軍が組織されて1990年には分離独立を宣言した。政府軍との軍事的対立に至って混乱が続いたが、1994年にようやく和平協定が結ばれた。対外関係では国連やESCAP(エスカップ)(アジア太平洋経済社会委員会)の一員であり、オーストラリアをはじめ南太平洋諸国、インドネシア、日本などとの関係を重視している。

 2007年の総選挙で国民同盟が第一党(28議席)となり、人民行動党などと連立を組み、初代首相を務めたマイケル・ソマレMichael Somare(1936―2021)が5度目の首相についた。

[谷内 達]

経済・産業

経済・産業の第一の特色は非市場部門(伝統的自給経済部門)の存在である。市場部門活動と非市場部門活動の双方に関与する者が多いので両者の分離は困難であるが、就業人口の多くが全面的または部分的に非市場部門活動に関与していると推定される。非市場部門の活動はおもにタロイモ、ヤムイモ、サツマイモ、バナナ、サゴヤシなどの伝統的な作物の自給的栽培、ブタの飼育、伝統的漁業などで、一部は国内販売される。また国内販売用の肉牛の飼育もみられる。

 第二の特色は鉱産資源の重要性である。1972年以来のブーゲンビル島での銅鉱石の採掘、輸出はこの国の国際収支や政府歳入に大きく寄与してきたが、同島での採掘は分離独立運動に伴う政治的、軍事的混乱により1989年に停止された。1980年代後半からは西部の国境に近いオク・テディOk Tediで金と銅鉱石が採掘され、輸出されている。

 2008年度の総貿易額(パプア・ニューギニア政府予算書)は、輸出49億5856万ドル、輸入26億2140万ドルとなっている。おもな輸出品目は鉱産物と農林水産物で、とくに金と銅鉱石などの鉱産物が輸出額の半分近くを占め、ついで原油、木材、パーム油(アブラヤシから採取する油)となっている。輸出農産物はコーヒー、ココア、コプラ(ココヤシの果実の胚乳を乾燥させたもの)、パーム油、茶など、輸出林産物は丸太、製材など、輸出水産物はエビ、マグロなど、おもな輸入品目は機械類、石油製品、自動車、米、食肉類などである。おもな輸出先はオーストラリア、日本、中国、ドイツなど、おもな輸入先はオーストラリア、シンガポール、ニュージーランド、中国、日本などとなっている。同国経済を支える産業のうち、鉱業、林業、水産業はおもに外資系企業に依存しており、商品作物生産の3分の1以上も企業的農園に依存している。国内の資本、技術の向上、人材の育成を図ることが、経済政策の課題となっている。

 2002年ごろまで経済は低迷が続いたが、2003年以降は成長に転じている。2005年の経済成長率は2.4%、2007年の国内総生産(GDP)は62億6100万ドル、一人当り国民総所得(GNI)は850ドルとなっている。

 全国的な交通・通信網としては航空と電話が発達しており、主要都市および奥地の177(2003)の空港が定期航空路で結ばれ、24都市がダイヤル即時通話回線で結ばれている。道路はラエと高地地方とを東西に結ぶハイランド国道のほかは、各県内で中心都市と周辺とを結ぶ1万9600キロメートル(2002)で舗装率はわずか3.5%にとどまっているが、自動車の利用が急速に普及しつつある。主要港湾はポート・モレスビー、ラエ、マダン、ラバウル、キエタなどで、海運は島と島とを結ぶ重要な輸送手段である。

[谷内 達]

社会

人口の99%がメラネシア系のパプア・ニューギニア人であるが、その人類学的特徴、言語、宗教的習俗、伝統的生活様式はきわめて多様である。土器、金属、機(はた)織りの技術や、文字をもたず、いわゆる新石器時代の段階にとどまっていたといわれる伝統的な生活様式は、貨幣経済の浸透や教育の普及によって急速に変容しつつある。固有の言語は800余りといわれるが、英語が公用語で、学校教育もすべて英語で行われる。また共通語(ピジン英語、ポリス・モツPolice Motu語)が広く通用する。各地に固有の宗教的習俗が受け継がれていると同時に、キリスト教が浸透しており、多くの人々は両者を実生活のうえで両立させている。

 年平均人口増加率は1980年代、1990~1994年に2~2.2%であったが、1995~2000年には4.6%と上昇し、2000~2003年には3.5%となっている。都市・村落間や地域間の経済的格差はきわめて大きく、貨幣経済の浸透により経済的動機が強まるにつれて、地域間の人口移動、とくに村落から都市への人口移動が多くなってきている。都市人口率は1966年の5%から1980年には13%、1990年には15%、2000年には13.2%となっている。ポート・モレスビーをはじめとする都市では人口流入に伴い住宅、雇用、治安などの面で問題が生じている。

 パプア・ニューギニアでは1994年から教育改革が進められており、旧制度の初等教育6年、中等教育4年、さらに全国試験を経て入学が認められる全国で6校のナショナルハイスクール2年間の六・四・二制から、初等教育の基礎学校elementary school3年(予備1年と1~2年生)、初等学校primary school6年(3~8年生)、中等教育secondary school4年(9~12年生)の三・六・四制の新しい教育制度へと移行している。ナショナルハイスクールはそのまま存続している。2001年の初等教育学校(elementary schoolおよびprimary school)数は3055校となっている。高等教育は大学(4年制)、初等教員養成大学(2年制)、技術短期大学(2年制)で、総合大学はパプア・ニューギニア大学、パプア・ニューギニア工科大学、ゴロカ大学など6校があり、単科大学は10校ある(2002)。識字率は57.3%(男63.4%、女50.9%。2003)である。医療施設は各州に基幹病院としての総合病院がある。1986年の保健所兼診療所は459、簡易医師による簡易診療所は2231を数え、1993年には人口1万人当りの病床数は34となっていた。2000年時点での医師数は275、歯科医師数90、看護師数2841である。

[谷内 達]

日本との関係

第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年(昭和17)には、ラバウルをはじめとするビスマーク諸島、ブーゲンビル島、およびニューギニア島北東部沿岸地域が日本軍の軍事的支配下に入った。1943年からは連合軍側が優勢となり、日本軍の勢力範囲はしだいに縮小してゆき、1945年(昭和20)8月の終戦を迎えた。

 日本との関係が強まったのは1970年代以降である。パプア・ニューギニアにとって日本は、銅鉱石輸出を中心に1970年代後半から1980年代末まで最大の輸出先であった。また1970年以来、林業、水産業を中心に日本企業が進出している。2007年の日本との貿易額は、日本への輸出917億円、日本からの輸入179億円と日本の大幅な輸入超過である。おもな輸出品目は銅鉱石(68%)、木材(18%)、魚貝類(7%)、コーヒー(3%)など、おもな輸入品目は自動車(トラック50%、乗用車10.5%)、一般機械類(6%)などとなっており、現在も日本は主要貿易相手国である。さらに日本は1975年1月に総領事館、同年12月に大使館を開設し、無償資金協力(教育施設)、有償資金協力(上下水道、水力発電、道路建設)、および技術協力などの援助を行っている。

[谷内 達]

『A・M・キキ著、近森正訳『キキ自伝』(1978・学生社)』『谷内達著『パプアニューギニアの社会と経済』(1982・アジア経済研究所)』『東京農大パプアニューギニア100の素顔編集委員会編『パプアニューギニア100の素顔――もう一つのガイドブック』(2001・東京農業大学出版会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「パプアニューギニア」の意味・わかりやすい解説

パプア・ニューギニア
Papua New Guinea

基本情報
正式名称=パプア・ニューギニア独立国Independent State of Papua New Guinea 
面積=46万2840km2 
人口(2010)=689万人 
首都=ポート・モレスビーPort Moresby(日本との時差=+1時間) 
主要言語=メラネシア諸語,パプア諸語,トク・ピシン,ヒリ・モトゥ,英語 
通貨=キナKina

ニューギニア島の東半部,ビズマーク諸島ブーゲンビル島および周辺の島々からなる国。ニューギニア島南東部にある首都のポート・モレスビーには南太平洋新興独立国のエリートたちが集まるパプア・ニューギニア大学がある。天然資源に恵まれた国で,銅をはじめ金,銀,石油,木材などが豊富であり,南太平洋随一を誇るコプラ,ヤシ油の産出地でもある。

ニューギニア島の中央を東西に山脈が走っており,分水嶺を形成している。主たる山脈はスター山脈,ヒンデンブルグ山脈,ビズマーク山脈,オーエン・スタンリー山脈などで,最高峰はウィルヘルム山(4694m)。オーエン・スタンリー山脈を背後にするポート・モレスビー地区を除けば,1年を通じて降水量が多い。ガルフ州のキコリでは年降水量が5080mmにも達する。降水量が多いため大河も多く,ニューギニア島南部の大平原を流れるフライ川,北東部を流れるセピック川,ラム川がそれである。

住民は主としてメラネシア人パプア人であるが,混血が著しく,今日両者を区別することは困難である。都市部を除けば,人々は伝統的生活を守っており,みずからの伝統文化に強い誇りをもっている。互いに似てはいるが,それぞれ独自の文化をもった社会が言語の数だけ存在しており,人間の営みがいかに千差万別かがよくわかる。全国で数百を下らぬ数の異なった言語が話されており,共通語としてピジン・イングリッシュとモトゥ語が使用されている。

 ニューギニア島北東岸沖のマヌス州にあるマヌス島では,女が外で農耕を行い,男が育児と炊事を行っており,人形に興味をもつのは女児ではなく男児である。ニューギニア島東端のミルン湾州のトロブリアンド諸島では,あらゆる男女の禁忌のなかで兄弟と姉妹のそれが最も強く,年ごろになると兄弟と姉妹は互いに顔も見ないようにしなければならない。この社会は母系制であり,子どもは母と同じ集団に属する。したがって父は子どもにとってはほかの集団に属するよそ者であり,財産その他は母方のおじから譲られる。またニューギニア島北西部の東セピック州にいるムンドゥグモール族Mundugumorでは,人々はいくつかの集団(〈紐(ひも)〉と呼ばれる)に属しているが,特異なのは,子どものうち男子は母の集団に属し,女子は父の集団に属するというルールをもっていることである。セピック地方の人々は,そのみごとな美術品によっても知られている。
執筆者:

1526年にヨーロッパ人として最初にニューギニア島に渡来したのはポルトガルのJ.メネセスである。ニューギニアの名称は,1545年にこの地を探検したスペインのO.レーテスが,アフリカのギニア海岸地方の人々と身体的特徴が酷似していると感じ,〈新しいギニア〉と呼んだことによる。首都となったポート・モレスビーの名も1873年に寄港したイギリス人船長の名にちなんだものである。19世紀後半になって,ニューギニア島の西半分をオランダ(現在はインドネシア領のイリアン・ジャヤ),北東部とビズマーク諸島やブーゲンビル島をドイツ,南部をイギリスがそれぞれ領有するという分割統治が始まった。1905年にイギリス領はオーストラリア領パプアとなり,第1次大戦後ドイツ領はオーストラリアの国際連盟委任統治領とされた。第2次大戦の終了後は委任統治領はオーストラリアの国際連合信託統治領となった。51年に信託統治領とパプアを一体化した議会が設けられ,73年にはパプア・ニューギニアとして自治政府が樹立された。75年9月16日にイギリス連邦加盟の立憲君主国として完全独立を果たし,翌10月に国連に加盟した。

定員109からなる一院制の議会制民主主義を採用している。しかしこれまで統一国家を形成したことがなく,また部族主義により,中央集権化を進めるのが難しく,国内分裂を避けるために20の州に大きな地方自治権を与えている。政党政治の特徴も多党化にある。パング党,人民進歩党,人民民主運動,人民行動党,メラネシア同盟などいくつもの政党が乱立し,どこも単独では政権がとれない。そのため政権は多党の連立となり,政情は必ずしも安定していない。しかし各政党間に大きな政策上の差異があるわけではなく,部族主義が分裂の原因である。したがって政権交替はあっても政体変化にはつながらない。対外的には,近年積極的にアジア接近策を進めているが,いまでも旧宗主国オーストラリアの影響力はきわめて強い。首都には日本大使館がある。

 1988年にブーゲンビル島の銅山の土地所有をめぐって鉱山開発会社(オーストラリア資本)と土地所有者(現地人)との間に対立が起こり,これがきっかけとなって事態はブーゲンビル革命軍による独立運動に発展した。政府軍との間で戦闘が展開され,オーストラリア,フィジーなどによる平和維持軍が投入され,和平交渉も試みられたが,平和解決には至っていない。

 人口の約70%は自給自足で生活する人々であり,貨幣経済を営む人口は全体の20~30%にすぎない。完全独立後もオーストラリアをはじめ諸外国からの援助が国家財政で重要な役割を果たしている。しかし資源的には大国である。コプラ,コーヒー,カカオ豆など植民地時代からの商品作物を輸出しているが,最大の輸出産品は鉱産物である。金と1992年に生産を開始した石油が柱で,金と石油とで輸出の半分を占める。ブーゲンビル島での独立運動のため,89年に同島の銅山は生産をストップしたが,それまでは銅が輸出の約40%を占めていた。木材も重要な輸出品になっている。そのほか,外国漁船の入漁料も貴重な収入源である。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「パプアニューギニア」の意味・わかりやすい解説

パプア・ニューギニア

◎正式名称−パプア・ニューギニアPapua New Guinea。◎面積−46万2840km2。◎人口−728万人(2011)。◎首都−ポート・モレスビーPort Moresby(36万人,2011)。◎住民−パプア人が3分の2,ほかにメラネシア人。◎宗教−キリスト教,民族固有の宗教。◎言語−数百の民族語。共通語としてピジン・イングリッシュ,モトゥ語,公用語として英語が使用される。◎通貨−キナKina。◎元首−英女王エリザベス2世,総督オギオMichael Ogio(2011年2月就任)。◎首相−オニールPeter O'Neill(2011年8月発足,2012年8月再選)。◎憲法−1975年9月発効。◎国会−一院制(定員109,任期5年)。最近の選挙は2012年7月。◎GDP−82億ドル(2008)。◎1人当りGNI−770ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−72.6%(2003)。◎平均寿命−男60.4歳,女64.6歳(2013)。◎乳児死亡率−47‰(2010)。◎識字率−60.1%(2009)。    *    *南西太平洋,ニューギニア島の東半部,ビズマーク諸島,ソロモン諸島のブーゲンビル島とブカ島,およびこれらの周辺の小島からなる国。ニューギニア島は中央を険しい山脈が走り,北側はセピック流域の低湿地,南側はフライ川流域の沖積平野となっている。住民は,都市部を除けば,数百の言語集団に分かれ,それぞれ独自の文化をもって暮らしている。石油,金,銅などの鉱産資源や森林資源に恵まれ,これらが主要輸出品である。 19世紀後半になって,ニューギニア島の西半部をオランダ(現在はインドネシア領パプア),北東部とビズマーク諸島やブーゲンビル島をドイツ,南東部を英国が,それぞれ領有するかたちができあがった。1905年英領はオーストラリア領パプアとなり,第1次大戦後,ドイツ領はオーストラリアの国際連盟委任統治領(第2次大戦後は国連信託統治領)となった。1949年オーストラリアは北東部と南東部を一つの行政単位に統合した。1975年イギリス連邦の一員として独立した。銅の産地であるブーゲンビル島は,パプア・ニューギニアの独立直前に単独で独立を宣言し,1988年以降,激しい分離独立運動を続けてきたが,2001年8月同島の一部自治を認める和平合意が実現した。2005年6月,ブーゲンビル島に独立国並みの自治政府が発足し,2011年から16年の間に住民投票で完全独立の是非が問われる。
→関連項目ホイットラムメラネシア

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パプアニューギニア」の意味・わかりやすい解説

パプアニューギニア
Papua New Guinea

正式名称 パプアニューギニア独立国 Independent State of Papua New Guinea。
面積 46万1937km2
人口 912万8000(2021推計)。
首都 ポートモレスビー

南西太平洋,オーストラリアの北方にある国。ニューギニア島東半部,ニューブリテン島ニューアイルランド島ブーゲンビル島マヌス島などの島々からなる。環太平洋造山帯に属し,地形は険しく,火山や地震も多い。熱帯気候で高温多雨であるが,ハイランド (高地地方) は比較的涼しく,霜をみることもある。ニューギニア島の南部 (旧パプア) は 1884年にイギリス領,1906年にオーストラリア領となった。ニューギニア島の北部およびその他の島々 (旧ニューギニア) は 1884年にドイツ領,1920年にオーストラリアの委任統治領,1946年に同信託統治領となった。 1949年からは両地域が一体として統治されるようになり,1964年の議会開設を経て 1973年に内政自治を獲得し,1975年独立。イギリス連邦に加入した。住民の大部分がメラネシア系のパプア族であるが,形質的文化的に地域差が大きく,言語は 700余に分かれている。公用語は英語で,ピジン語 (→リングア・フランカ ) も広く用いられる。熱帯自給農業と伝統的漁業に従事するほか,商品作物としてコーヒー,チャ (茶) ,ジョチュウギクがハイランドで,ココヤシ,カカオ,ゴムが海岸部と島嶼部で,アブラヤシがニューブリテン島西部で栽培される。このほか外国資本による資源開発が進み,ブーゲンビル島の銅,ラエ西郊の金,パプア湾岸の石油や天然ガスなどの地下資源をはじめ水産資源,森林資源が開発され,大規模な水力発電計画もある。輸出品は銅をはじめ金,コーヒー,カカオ,ココナッツ製品,木材,合板,水産物など。おもな輸出先はオーストラリア,日本,ドイツなど。ブーゲンビル島独立運動によって 1989年以後銅山は操業を停止しており,経済に大きな打撃を与えている。都市人口の割合は低い (14%〈1990〉) がポートモレスビー,ラエ,ラバウルをはじめ,主要都市への人口流入傾向がある。ラエとハイランドを結ぶ幹線道路を除き道路は局地的なものにかぎられるが,都市間の国内航空網はよく発達している。国営航空が国内各地およびオーストラリア (シドニー,ブリズベン) ,フィリピン,ホンコン,シンガポール,日本を結んでいる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「パプアニューギニア」の解説

パプア−ニューギニア
Papua New Guinea

オーストラリア北方の赤道直下に位置するニューギニア島の東半分を占める国。首都ポートモレスビー
【略史】1526年ポルトガル人デ=メネセスが来航し,パプアと命名。1828年ニューギニア島西半分はオランダ領となったが,84年,残りの北東部をドイツ,南東部をイギリスが領有。1902年イギリス領はオーストラリア領になり,第一次世界大戦でドイツ領はオーストラリアに占領され,大戦後の21年オーストラリアの国際連盟委任統治領となる。第二次世界大戦後,国際連合信託統治領となり,1949年オーストラリアは南東部・北東部を一行政単位パプア−ニューギニアに統合した。
【独立とその後】1973年オーストラリアが自治政府を承認,75年独立してイギリス連邦に加盟。多数部族の集合体であるため,頻繁に政権交代が繰り返されるいっぽう,ブーゲンビル島分離独立運動が続いている。1998年,政府軍とブーゲンビル革命軍との停戦協定が調印された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パプアニューギニア」の解説

パプアニューギニア
Papua New Guinea

オーストラリアの北にあるニューギニア島の東半分と周辺の島々からなる国。1526年,ポルトガル人メネゼスがヨーロッパ人として初めて来航。19世紀後半にニューギニア島西半分はオランダ領,東北部はドイツ領(ニューギニア),東南部はイギリス領(パプア)となった。その後東部の2地域はオーストラリア領をへて1975年,パプアニューギニアとして独立した。88年よりブーゲンヴィル島の独立運動が10年あまり続いた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のパプアニューギニアの言及

【オセアニア】より

…物質生活は貧困であったが,二重単系出自に基づく複雑な社会組織をつくり,トーテミズムとして知られる宗教観念を発達させていた。(2)パプア人とメラネシア人 メラネシアの住民は一般に黒色の皮膚と渦状毛もしくは縮毛を特徴とするところから,従来アフリカ黒人と同類のニグロイド人種に分類されがちであったが,最近の遺伝学的研究ではこの説は否定され,オーストラリアのアボリジニーと同じオーストラロイドに属するとされている。ただし,小地域ごとに割拠して長年月の孤立を続けたことと,後来のモンゴロイド人種との混血の程度とによって,現在の身体特徴にはかなりの地域差が認められる。…

※「パプアニューギニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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